みちのくの旅 U 五所が原 弘前

2011.8.22

BGM 吉田兄弟 津軽あいや節

青森駅ホームです。
この先は津軽海峡でこの右側に
八甲田丸が保存されています。







五所川原へ向かうべく奥羽本線、五能線経由秋田行きを待っていると、寝台夜行列車の
日本海が到着しました。

この先は行き止まりですから、列車を切り離して寝台車は来た方向へ牽引されていきます。
牽引するディゼル機関車
奥羽本線は川部というところで
五能線と分かれます。
川部からはディゼルです。
岩木山が見られましたが、残念ながら頂上は雲の中でした。
津軽平野は穀倉地帯。

五所川原に到着です。
五所川原駅
五所川原市は本州の北端、青森県津軽半島の中に位置しています。

津軽鉄道線は、津軽五所川原駅から津軽中里駅間20.7kmを結ぶローカル路線です。

立佞武多(たちねぶた)の館
立佞武多の展示があります。
毎年高さ22メートルにも及ぶ立佞武多
この館の中で製作します。
このネブタは2011年の作品です。
義経伝説を題材にしています。
上部は針金と特殊な和紙で作られています。
多少の雨でも大丈夫だそうです。
下部の台座部分から鋼鉄の柱が上まで
伸びていてめったなことでは倒れないそうです。
これは一昨年の作品です。
マタギを描いています。
五所川原市「立佞武多祭」とは、平成10年に約80年ぶりに復刻した青森県は五所川原市にて開催される夏祭りです。
【立佞武多】と呼ばれる、高さ約22m、重さ約17トンの巨大な山車が「ヤッテマレ!ヤッテマレ!」の掛け声のもと、五所川原市街地を練り歩き、その圧倒的迫力で沿道の観客を魅了しています。
運行は立佞武多の館に展示している3台の大型立佞武多と町内・学校・愛好会などでつくられる中型、小型のねぷたと合わせ、15台前後が出陣いたします。



迫力がありますね。
五所川原駅前通り人気は余りありませんでした。
一寸お洒落なコーヒー店がありました。
魚介類ばかりの食事に飽きたのか孫は焼きそばをほうばって食べてました。
五所川原といえば、太宰治ですね。
この駅から金木駅まで津軽鉄道で20分ほどで着きます。
金木は太宰のふるさとです、生家は今では斜陽館という名で記念館として残されています。
懐かしい切符売り場で切符を購入中。
愛称走れメロス号
12月1日からはストーブ列車になり
運賃プラス300円が要ります。


夏は風鈴列車です。
金木駅に到着しました。
斜陽館です。

明治40年6月21日、大地主 津島家6代の源右衛門が当時経営中の金融業店舗を兼ねた住宅として竣工しました。 米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使った入母屋造りの豪邸です。 その2年後、作家太宰治、本名津島修治 が津島家六男として誕生しました

戦後、この豪邸を手放し、昭和25年から旅館「斜陽館」として町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れました。 土間では珈琲が楽しめ、地元の待ち合わせ場所としても人気がありました。

平成8年3月に旧金木町が買い取り、平成10年4月17日、太宰治記念館「斜陽館」として開館しました。 太宰治の生家であるとともに、明治後期建造物としても大変貴重な建物です。
1階は和室
2階は洋室と贅の限りを尽くした建物です。

五所川原出身の著名人 白戸栄之助
日本初の民間操縦士。金木町朝日山出身。

ほかに著名人としては吉幾三や津軽三味線の元祖「仁太坊」こと本名・秋元仁太郎。金木町神原の出身です。
仁太坊 8歳のとき疱瘡がもとで失明。12、3歳のころ上方から流れてきた女三味線弾きから手ほどきを受けたと伝えられています。 「人まねでね おめの三味線を弾け」が仁太坊の三味線哲学です。この哲学は、現代の津軽三味線奏者の礎になっています。
走れメロス号
金木駅に到着しました。
五所川原に戻って、この日は五能線の
快速リゾートしらかみ ぶな編成列車に乗って
宿泊地弘前に向かいます。
窓が大きく車窓の景色が良く見える工夫がされてます。
社内は
ボックス席、イベントスペース、展望室とさまざまな工夫が施されています。
弘前駅に到着しました。
青森ねぶたの金魚提灯 が掲示板の上に並んでいます。
弘前駅前です。区画整理がされて随分とすっきりしていました。
この日の夕食は津軽三味線を聞きながらとなりました。
津軽三味線奏者渋谷和生のお店
渋谷さんは津軽三味線全国大会A級チャンピョン3連覇の名人です。
残念なことにこの日は北海道へ出張とのことでお弟子さんたちが登場しましたが・・・。
ちょとはかりお年を取りすぎていて
迫力に欠けましたね!
こちらは修行中の身でお店で働きながら
目下修行中。
こちらの2人の演奏は中々のものでしたが、全国大会ではまだまだだそうです。
この方は地元出身と言っていました。
この子は東京から修行に来ているそうです。
翌日は弘前市内観光と決めていたのですが、
あいにくの雨模様につきレンタカーを借りての市内観光となりました。
孫の提案でりんごセンターに行くことになりました。
まだ一寸早いのですが、色付きはじめている品種もありました。
最盛期には沢山の観光客がやってくるそうですが、この日は平日の雨模様朝も9時と言うことで観光客は我々のほか1組だけでした。

ここでは孫が青りんごのもぎ取りを体験してきましたよ。

これなんかはもう食べられそうでしたが。
次に向かったのは禅林街
弘前城の南西に当たる弘前市西茂森には、曹洞宗の寺院ばかりが何と三十三も集まった「禅林街(禅林三十三ヶ寺)」と呼ばれる場所があリます。

禅林街入口より真っ直ぐ進むと、杉並木のある通りの両側に、いくつもの寺院が連なっている。
禅林街の突き当たりにあるのが長勝寺
津軽家の菩提寺です。

津軽家のお墓
長勝寺正門
禅林街の入り口近くには栄螺堂(さざえどう)
通称六角堂があります。
天保10年(1839)に豪商中田嘉兵衛が発願して建立されたもので、天明、天保と大飢饉が続き弘前でも多くの餓死者が発生し、無縁仏となった死者を弔う為だったとされます。
藩祖津軽為信の津軽統一の際に戦死した敵味方の将士
らを供養するという本願を、大圓寺第六世の京海が立てた。
日本最北に位置する五重塔
重要文化財
四方3間、総高31.2メートル
弘前市内武家屋敷
旧岩田家(県重宝)   
寛政後期から文化年間に立てられた中級武士の住宅。ほぼ建築当初のまま残され、生活空間を通らず座敷へ行ける間取りが特徴です。

弘前城北門(亀甲門)
蓮池
先方に天守が見えます。
天守(重要文化財)
[弘前城天守](国指定重要文化財)
津軽藩祖 為信(ためのぶ)の意思を継ぎ、2代藩主 信枚(のぶひら)が慶長16年(1611)に築城。現在の天守は文化8年(1811)9代藩主 寧親(やすちか)が再建。弘前城史料館として藩の資料を展示しています。

城内は自転車乗車禁止ですよ!
さくらが咲いていないのが残念です。
2度目の弘前城ですが2度とも季節はずれでした。
青森銀行記念館
イギリス国教会として確立された、カトリックとプロテスタントの架け橋となる中道主義の教会。
大正時代に建てられたゴシック様式 赤煉瓦作りの聖堂は、米国人が設計したものです。アメリカで120年前に作られたという日本で唯一のリードオルガンは、今も現役で使われています。
カトリック弘前教会
名匠 堀江佐吉の弟 横山常吉が、明治末期に建築したロマネスク様式の木造建築です。慶応2年(1866年)に製作されたというゴシック様式の祭壇は、オランダの聖トマス教会から譲り受けたもの。
カナダのカーロン神父から送られたステンドグラスには、岩木山、五重塔、カトリック教会、りんご、津軽三味線など弘前がまるごと描かれており、光を浴びてとても綺麗です。日本的なマリア様の絵画にも出会えます。
JR弘前駅前真正面になんとマンションが建っていました。
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