前日宿泊のお宿 野蒜山荘
由布岳の麓 温泉街からは少し離れていましたが料理も温泉風呂も気に入りました。
由布岳と湯けむり
湯布院を発って大分へ
大分県立歴史博物館へ
ここは宇佐風土記の村があるところで6基の前方後円墳を中心とした遺跡公園となっている。
赤塚古墳
川部・高森古墳群(かわべ・たかもりこふんぐん)は、大分県宇佐市大字高森字京塚にある古墳群。1980年3月24日に国の史跡に指定されている。この古墳群を含む一帯は、史跡公園宇佐風土記の丘として整備されている。
車坂東4号墳
角房古墳
県立博物館からすぐのところに宇佐神宮があります。

宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。

若宮
下宮
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)
一の御殿、二の御殿、三の御殿 祀られている神が違います。


御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。

八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました

大元神社遥拝所
大分を後にして遺跡の最後は王塚古墳へ

王塚古墳おうづかこふん)は、福岡県嘉穂郡桂川町に存在する古墳で、5つの色彩で彩られた壁画が石室内ほぼ全面に施されていることで知られている。 日本の特別史跡。
一年に二回しかないない古墳の石室公開に運よく遭遇しました。

1934年(昭和9年)9月30日に採土工事中に前方部が削られ、横穴式石室の前室右壁隅が開口し、偶然発見されたもので、6世紀中ごろに作られたとされている。形状は前方後円墳であるが、先の工事によって墳丘の半分以上は失われている。

現在、石室は完全に密閉されて保存されており、通常は見学することは出来ないが、春と秋の年2回一般に公開されている。

王塚古墳の最大の特徴は、石室のほぼ全面に施された壁画である。




内部が暗くてこんなにきれいには見えません、もちろん撮影禁止ですから以下の2枚はネットからのパクリです。

描かれている図像は馬、靫(ゆぎ)、盾、刀、弓などのほか双脚輪状文、蕨手文、三角文、円文などの幾何学的文様。 2005年7月現在、日本で確認されている装飾古墳の壁画で使われている色は6色(赤・黄・緑・青・黒・白)あるが、そのうち青を除く5色が使われており、国内最多である。
王塚古墳の後は最後の訪問地宗像市にある宗像大社です。

宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)を祭神としており、全国各地に同名の神社が存在している。総本社は福岡県宗像市にある宗像大社である。

航海の安全を祈願する神社で、瀬戸内海沿岸や近畿地方の海沿いの地域に多く存在する。

なお、宗像系の神社は、全国で5番目に多いとされている。

「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では辺津宮のみを指す場合も多い。地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145km離れた朝鮮半島釜山の方向に向かう。
古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であった。古くから海上・交通安全の神としての神威にちなみ、信仰されているが、現在では海上に限らず、陸上・交通安全の神として信仰を集めている。

昭和29年以来十数年に渡り沖の島の発掘調査が行われ、4・5世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見された。このことから、沖の島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、古代から信仰の対象とされていたことが偲ばれる。
海上交通の要所に位置する沖ノ島に祀られている沖津宮は、中国・朝鮮の歴代王朝との交易で栄えていた。現在、緊急避難港に指定されているが、島全体が御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。
伝えられる伝承では日本神話に起源を持つという。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神の息から生まれたのが宗像三女神ということになっていて、彼女達は天照の勅命を奉じ皇孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めるようになったのが起源とされている。
御神木
一日目 博多から対馬へ
五日目 唐津から伊万里 武雄温泉へ
前日宿泊の武雄温泉 大正ロマンの宿 京都家

創業者である先代が京都の料亭で修業を積んだので旅館の屋号を京都家にしたそうです。

さすがに料理は美味しかった 。
武雄温泉街少し寂れていましたが、間もなく長崎新幹線が開通し武雄温泉駅に停車するそうで復活が期待できます。
武雄温泉 楼門 

佐賀県出身の建築家辰野金吾(東京駅舎設計者)の設計、清水建設施工
新館 これも辰野金吾の設計による
武雄を出発 吉野ヶ里歴史公園へ

立派な歴史公園センターの建物でした。
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。
南内郭の物見やぐら

物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるものであり、1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。
環濠と木柵(右側の柵)、逆茂木(鋭く先端を削った左側の木) 

吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。
南内郭の入り口門
門の両側には物見やぐら
二重目の環濠
南内郭
竪穴式住居と物見やぐら
市と倉

吉野ヶ里の「クニ」の交易の中心地と考えられている。

出入りを監視するやぐらや物を補完する倉庫、市を管理する市楼など31棟が復元されている。
南内郭

物見やぐら4棟や王たちの家、煮炊き屋など、王たちの居住空間も含め20棟が復元されている。
王の家
北内郭
吉野ヶ里集落中最も重要で神聖なばしょとされており、当時まつりごとが行われていた所と考えられている。
巨大な祭殿をはじめ、9棟の建物が復元されている。
北内郭へは厳重な警備があったと思われる。
主祭殿
高床建物
従者の住まい 竪穴式住居
斎堂
北墳丘墓・立柱・祀堂
甕棺墓
立柱
北墳丘墓
約2100年前の歴代の王やそれに近い身分の人が埋葬された特別な墓。
墓の中からは14基の甕棺が出土し、そのうち1基には聖堂の剣とガラスの管玉が、7基には青銅の剣が副葬されていた。
崩れた甕棺
吉野ヶ里をゆっくり見学した後、福岡県八女市にある岩戸山古墳へ

九州地方北部では最大の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)に造られたと推定される。
別区の石造(レプリカ)

北東隅に「別区(べっく)」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するという特徴を持つ

八女市北部、八女丘陵上に展開する八女古墳群を構成する古墳の1つ。八女丘陵は東西10数キロメートルからなり、5世紀から6世紀にかけての古墳が数多く築かれている。その数は前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及び、当古墳はその中でも代表的なものである
岩戸山古墳の築造年代は須恵器の年代観から6世紀前半と見られ、被葬者と推定される筑紫君磐井に関する記録とも一致している。

別区には遠足で来た子供たちが元気に遊んでいました。
岩戸山歴史資料館内に陳列されている武人の石造

墳丘・周堤・別区からは一般に「石人石馬」と総称される当地周辺特有の石製品が100点以上出土しており、その数・種類は他の古墳を圧倒している。
関取の下半身  ふんどしを付け着けている。
珍しい女人の石造 膨れた胸が
ほぼ純金に近い、細金細工の粋を凝らした耳飾で、1個のみ出土しました。この耳飾は朝鮮半島からもたらされたものと考えられています。
馬の埴輪  立山山8号古墳
 古墳時代中期の鋲留短甲(びょうどめたんこう)です。保存状態が非常に良好で、発見当初の処置が良かったようです。所蔵は九州歴史資料館です。
岩戸山歴史資料館
平塚川添遺跡

岩戸山歴史資料館を後に平塚川添遺跡へ

平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から西暦4世紀ごろ)の遺跡である。国の史跡に指定(1994年(平成6年)5月19日指定)。
筑紫平野の東端近く、現在の朝倉市域西部の沖積平野に位置している。遺跡の西側には筑後川支流の小石原川が流れ、遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地で、福田台地の西端部にある。遺跡の東側には同じく筑後川支流の佐田川が流れる。
当遺跡の周辺は筑後川とその支流の小石原川・佐田川・荷原川(いないばるがわ)により形成された平野であり、北東にある平塚山の上遺跡をはじめとして、同時代の遺跡がいくつか存在する。
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)
1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見され、当時の甘木市教育委員会と福岡県教育委員会により翌1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が進められた。
遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。
六日目 武雄温泉から湯布院へ
魏志倭人伝の国々を巡る旅

2015年4月12日~18日

前日宿泊の湯の本温泉がある湯の本湾

湯の本温泉では国民宿舎壱岐島荘に宿泊
この日のスタートは鬼の窟(鬼の窟屋)古墳から
前室・中室・玄室の三室と羨道から成る長さ17メートルの石室は長崎県内最長。
九州でも屈指の石室
月読神社

日本神道発祥の地とされる神社。鳥居の先には急な石段の参道が続き、周辺は神秘的な雰囲気が広がる。
安国寺

1338年(暦応元年)足利尊氏と直義は、平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うために、従来あった海印寺を安国寺とした。室町時代の貴重な文化財を多く所蔵し、なかでも高麗版大般若経は国の重要文化財に指定されている。
国指定特別遺跡 原の辻遺跡(はるのつじいせき)

いまから2000年前の弥生時代に栄えた多重環濠を持つ集落遺跡
魏志倭人伝に記された邪馬台国はじめ、様々な国の様子が記されている。
記された国の中で、国の場所と王都の位置の両方が特定されるのは国内で唯一「壱岐・原の辻遺跡」だけ。

一支国博物館のジオラマ
原の辻遺跡は内海湾に流れ込む幡鉾川を少し遡った低地に位置する。
一支国博物館展望フロアより原の辻遺跡展望
遺跡復元周辺案内
港があった位置 発掘終了後埋め戻され今はポールがあるのみ

ちなみのこの場所は私有地につき遺構を残せませんでした。
発掘された港の復元イメージ

内海湾に入った大型船から小型の船に乗り換えて港に着いたと考えられています。
王都の中心域

発掘された柱穴から建物を想定して復元されてます。
祭祀に使ったと考えられる建物
見張り台
遺跡の脇を流れる幡鉾川
原の辻遺跡
壱岐の印通寺港近くに電力王で知られた松永安左ェ門の生家が記念館として残されています。
壱岐島郷ノ浦港
ジェットホイルに乗って博多に戻ります。
この日も海は大荒れでした。
博多港に到着後、福岡市博物館へ

この博物館には「漢倭奴国王」印の本物が陳列されてます。

金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
京都の藤原貞幹が、金印の員面を入手して、早くも発見された年に表した論考
亀井南冥の金印鑑定書
金印の文字に関する考察
重さと大きさについての考察
博多港
ジェットホイル ビーナス号 

対馬厳原港へ出発
玄界灘を行く

玄界灘(げんかいなだ)は、九州の北西部に広がる海域である。大陸棚が広がり、対馬海流が流れて世界有数の漁場として知られる。
2時間20分程で対馬厳原港へ到着

対馬は魏志倭人伝によれば
四面を海で囲まれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿(きんろく)の通う小径のようで、狭くて険しい。
厳原港に入港
港は山に張り付くようだ

倭人伝続き
良田がなく、人々は海産物を食料として自活しているが、船によって南北から米穀を買い入れてもいる。
厳原港ターミナルビル
早速レンタカーを借りて、港から数分の「対馬民族資料館」へ

資料館は清水山城跡に建てられてた。
入り口には朝鮮国通信使の碑

江戸時代を通して12回朝鮮通信使が来日したが、対応役は対馬藩であった。
海に潜ってアワビを取る道具 アワビ起し
重要文化財 毎日記

対馬は鎌倉時代中期から幕末まで宗氏が600年間統治してきた。
そのうち寛永年間(1630年代)から240年間にわたる藩政記録が残されている。
元禄対馬国絵図

江戸時代は鎖国で海外渡航は禁止されていたが、対馬藩は幕府公認のもと釜山の倭館を拠点に朝鮮と外交や貿易を行っていた。

金石城跡 ~宗家居城~
 1669年、対馬藩三代藩主・宗 義真(よしざね)がそれまでの金石屋形を拡張・城郭整備を行い、金石城と呼ばれるようになりました。城跡全体が国の史跡に指定されています


万松院

元和元年(1615年)第20代対馬藩主宗義成が厳父 義智の菩提を弔うために創建し、厳父の法号に因んで「万松院」とした
墓地は、桃山建築様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる123段の自然石の大石段を登りつめると歴代の藩主と一族の墓が並んでいる。
杉の巨木
4~5mにも及ぶ巨大な墓石もあり壮観である。
明治34年に旧日本海軍が掘った人口の瀬戸に万関橋が架かり
対馬の上下島を結んでいる。
人口の瀬戸 万関橋から
梅林寺
由緒によると、538年に仏像と経巻を献上した百済からの使節が近くの浦に滞在した際、仮堂を設けてそれらを安置した。その後、仮堂のあった場所に一寺を建てたのが起源で、寺号不明ながら日本最古の寺ともいわれる。嘉吉年間(15世紀中葉)には梅林寺とよばれていた

2014年11月24日、寺の保管庫から上記の誕生仏と大般若経360巻(総額約1億1千万円相当)を盗み、韓国に密輸しようとしたとして、韓国人の男5人が逮捕された。この内、容疑を認めた2人は「対馬には仏像を盗みに来た。日本の仏像は売れば金になる」という趣旨の供述をしている]、盗まれた経典の一部は、保管庫に侵入する際に使用したとみられるバール (工具)と一緒に捨てられた状態で見つかった
竜宮伝説・和多都美神社
和多都美神社(わたづみじんじゃ)は浅茅(あそう)湾の入り江の奥深く、烏帽子岳の麓にあります。


「延喜式」に名前の見える式内社で、社伝によれば海神である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)が当地に宮殿を造り、宮を海宮(わたづみのみや)と名付け、この地を夫姫(おとひめ)と名付けたとあります。
夫婦岩と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の墳墓

祀られているのは豊玉彦の娘である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と、その夫で海幸山幸伝説の山幸にあたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)です。
和多都美神社(わたづみじんじゃ)の前には浅茅湾の海が広がり、海の中に2つの鳥居が立っています。
鳥居は全部で5つあり海の中から一直線に神社の社殿に続いており、 満潮の時には社殿の近くまで海水が満ち、伝説ムードいっぱいの神社です
烏帽子岳(えぼしだけ)展望台は日本でも有数のリアス式海岸である浅茅(あそう)湾の中央北部にある烏帽子岳(えぼしだけ)の山頂にある展望台です。
烏帽子岳(えぼしだけ)の標高は 176m ですから、そう高い山ではありませんが周りに高い山がないので360度のすばらしい展望が楽しめます。
写楽の古代史跡探訪へクリック
七日目 湯布院温泉から大分を経て 宗像 そして帰路へ
四日目 博多(奴国)から唐津(末蘆国)へ
三日目 壱岐から博多へ
二日目 対馬から壱岐へ
かねてか魏志倭人伝に記されているの対馬国から壱岐国、末蘆国、伊都国、奴国、不弥国など北九州を巡ってみたいと
思っていました。そして邪馬台国が何処にあったのかを実際にこの目で見て回って想像してみたい。そんな思いで今回
北部九州を巡ってきました。
倭人伝の時代を下る歴史的な遺跡、観光名所にも行ってきました。
前日は唐津虹ノ松原にある唐津シーサイドホテルに宿泊、夜は知人に紹介してもらった魚料理の「玄洋」で呼子のイカや新鮮な魚をちょっと贅沢に頂きました。

朝から早速遺跡めぐりです。
久里双水古墳(くりそうずいこふん)

佐賀県唐津市双水に存在する前方後円墳である。
3世紀末から4世紀ごろに作られたとされており、邪馬台国の起源をさかのぼる上でも重要な遺跡である。
粘土で覆われた石室は砂岩製の天井石3枚で密閉されており、内径は高さ2.5メートル、幅0.9メートル、高さ1メートルの竪穴式石室が発見されている。

ガラスに覆われた石室を見ることができる
前方後円墳の形が確認できました。

古墳の頂上に登ると山本地区一帯を見渡すことができる。

発見当時はニュースステーションで紹介され、羽田健太郎がライトアップされた古墳の上でピアノを演奏した。

唐津市内に戻り菜畑遺跡に来ました。

菜畑遺跡(なばたけいせき)は、現在日本最古の水稲耕作遺跡である。佐賀県唐津市の西南部、JR唐津駅から西に2キロメートルほどのところにあり、国の史跡に指定されている。縄文晩期の水田が発見されている

本遺跡は1979年(昭和54年)に発見され、1980年12月から1981年(昭和56年)8月にかけて発掘調査が実施された。1983年(昭和58年)に史跡に指定された。

遺跡は、海抜10メートル前後の谷底平野に面した、緩やかな丘陵斜面に立地している。

遺構は16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は、18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培された推測されている。
菜畑遺跡を後にして東松浦半島を北上し、呼子港へ
朝10時頃でしたが、朝市が開かれていました。

日本三大朝市だそうです、以前にも来ましたが輪島とか高山の朝市に比べると一寸という感じですかね。
呼子を早々に豊臣秀吉朝鮮出兵の本拠地 肥前名護屋城跡へ
名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。
呼子までかつて来ていて、ここへ来るのは初めてでしたが、何とも立派な城であったことか。今は城の石垣だけですが。
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
大手門跡
秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる
三の丸
本丸跡
名護屋城天守閣跡
眼下に呼子港
名護屋城を後に焼き物で有名な伊万里に来ました。

秘陶の里 大川内山

鍋島藩窯のあった大川内山では、明治4年の藩窯解散以後、藩窯で培われた高度な技法を守り、受け継いできました。現在でも、鍋島の技法はもちろん、新たな技術も取り入れた多くの窯元が大川内山にあり、伊万里焼の中心となっています。
江戸時代、肥前地区で焼かれた焼物(磁器)は、伊万里の港から積み出され、国内はもちろん、遠くヨーロッパまでも運ばれたので、伊万里が焼物の代名詞となり、これらの焼物の総称が「古伊万里」と呼ばれています。現在では、特に赤絵に金を施した物を「古伊万里様式」と呼んでいます。
伊万里の後今夜の宿泊地 武雄温泉から5キロメートル行ったところにある、おつぼ山神籠石を見てきました。
おつぼ山神籠石は、昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され、翌38年に発掘調査が行われました。その結果、朝鮮式の山城であることが確認され、それまで神域説と山城説で大論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史にその名を残しています。
おつぼ山神籠石の列石は、総延長が1866メートルあり、このうち北端から南西部にかけて列石が抜けて確認できないところがあります。おつぼ山を取り巻いている列石の個々の石はおよそ高さ70センチメートル、厚さ40センチメートルで、残石の数は1313個です。
第一水門

列石の上には幅九メートルの土塁があり、谷間には水門が設けられ、門跡も2箇所が確認されています。
神籠石は文献に出てこない遺跡ですので、その築造の時期については異論がありますが、7世紀後半の白村江の戦い(663年)に関連させる説が有力です。
第二水門
前日博多はビジネスホテルに泊まって
行きつけの焼き鳥屋「信秀」で一杯

この日は奴国(現在の福岡市周辺)遺跡を巡ります。

奴国の中心から少し離れた志賀島の金印公園へ
金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。


前日福岡市博物館で金印のレプリカでお梨重さに調整したものを持ってみましたが、結構重いです。
大きさは2.3センチ角くらいで、108グラムあります。
金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。
光正寺古墳
不彌国王墓と考えられている前方後円墳

不彌国は
魏志倭人伝では
「奴国より東に百里すすんで、不彌国に到着する。官は多模といい、副は卑奴母離という。人家は千余戸である。」

墳丘は盛り土で保護し復元してあり、古墳周辺の広場と一緒に利用出来るように整備されている。

この古墳は 福岡県内の前期古墳の中で最古期に造られたもので、3世紀後半に位置づけられる。 規模は全長約53m、後円部直径約33mで糟屋郡内最大の前方後円墳であることから、 当時糟屋郡内を支配していたと思われる「不彌国(ふみこく)」王の墓と考えられている。
宇美町立歴史民俗資料館
光正寺古墳 ジオラマ
副葬品の出土状況
資料館は宇美八幡宮の境内にありました。
不彌国から奴国に戻って板付遺跡弥生館へ行きました。

日本最古の稲作集落のひとつである板付遺跡は、集落、墓地、水田を持つムラを形成していた。標高11~12mの低い台地に集落を設け、東西の沖積地を水田としていたらしい。集落にはV字形断面の環濠をめぐらし、さらに台地の周囲を水田の用水路をかねた溝が取り囲んでいる。弥生文化が成立期に達した時代の重要な遺跡として、国指定史跡に指定されている
1950年(昭和25年)1月、竹下駅前で仕立て屋を営んでいた在野の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)が、ゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上した。

日本考古学協会の共同研究「日本農耕文化の生成」の一環として、中原や九州大学の岡崎敬、明治大学の杉原荘介らを中心とした発掘調査が4年間にわたり行われ、断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。
板付式土岐
炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土したことで稲作農耕の存在が確認された。
遺跡のジオラマ

環濠は、平面形は卵形で、南北110メートル、東西81メートル。幅1~5メートル、深さ1~2.5メートル、断面V字形。

低台地上の環濠集落と周辺の沖積地には水田跡が広がり、やや離れた位置には墓地が見られる。環濠の内部は後世の削平で失われており、現在復元されている竪穴住居は、江辻遺跡などの同時期の住居址を元に復元されたものである。
板付を出て春日市にある奴国の丘歴史資料館へ

春日市周辺が奴国と呼ばれている時代があった。
王墓がそんな石、青銅器などの生産工房が密集する須玖岡本遺跡の周辺は奴国の中心であったと推定される。
奴国の王墓  ジオラマ

奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される
支石墓

1899(明治32)年、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面前後のほか多数の宝物が副葬されており、これを奴国王墓とすることが今では考古学上の定説となっています。
今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は奴国(なこく)とよばれる国でした。

奴国は、大陸に向かう天然の良港・博多湾という地の利により、いち早く中国や韓半島からの進んだ文化を取り入れて発展した先進地域でした。春日市域では弥生時代中期から集落が急増し、奴国の中心地として成長していったことが、遺跡の発掘調査で裏付けられています。
王墓の墓 甕棺墓を発掘調査時の状態で展示している。
ドームA棟内 甕棺が埋納されている。
ドームB棟
奴国の中心春日市を出て一路大宰府へ

西鉄大宰府駅前
大宰府天満宮 鳥居
心字池にかかる太鼓橋
鳥居の先は楼門
本殿 修学旅行の生徒と韓国からの観光旅行者で平日にも関わらずたくさんの人出でした。
天然記念物の大楠
樹齢千年とも千五百年とも
大宰府天満宮境内に九州国立博物館があります。
残念ですが、中は撮影禁止でした。
大宰府から伊都国へ

伊都国歴史博物館(いとこくれきしはくぶつかん)は、福岡県糸島市にある博物館。

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』にみえる倭国内の国の一つである。『魏志倭人伝』によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定されている。
古代の船
三雲遺跡の周辺に井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)がある(地元の伝えによると、鑓(銅剣の類か?)が土の中から出て来た事から「鑓溝」の小字名がついたらしい)。青柳種信の著した『柳園古器略考』によると天明年間(1781年 - 1788年)に、この遺跡からは21面の鏡が出土している。
井原鑓溝遺跡  推定位置  現在は田んぼです。
三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)は、福岡県糸島市にある伊都国の遺跡。市内の細石神社の裏手に所在する。 周溝を持つ墳丘墓で、甕棺墓 2器を持つ弥生時代の王墓である。
文政5年(1822年)2月、三苫清四郎が住宅の土塀を築こうと南小路の畠の土を取ろうとして偶然発見したという。
後の1974年(昭和49年)の再調査の時に「2号甕棺」が発見された。
平成の学術調査で「周溝」を持つ事が判明し、現在は「方形周溝墓で、甕棺を2器を添える様にして設置した墓」である、とされる。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63~平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。

この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。
1号墓出土品の一部は「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。
平原遺跡・1号墓


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。
1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに『前原市報告書』が「大柱跡」とした穴があり、その延長線上に日向峠がある
平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。
伊都国を離れ一路、末蘆国(佐賀県唐津)へ


唐津の鏡山からの展望 眼下に虹ノ松原
松浦佐用姫伝説の碑
松浦佐用姫の銅像
唐津 松浦川河口

靄で霞んでいてよくわかりません。
前日は上対馬の比田勝港にある「花海荘」に宿泊

旅館から20分程で北端にある韓国展望所へ
生憎低気圧の通過で天気は最悪
残念ながら韓国は見えませんでした、天気が良ければここから50キロメートル北方に釜山が見えます。
全国第二位の銀杏の大木
琴の大銀杏
樹齢1500年といわれる日本最古の銀杏。現在もなお樹勢は旺盛でたくさんの若葉を付けていました。
大銀杏の根本
西の漕手
浅茅湾の奥まった入江。昔は東側から西の浅茅湾まで陸の幅が160mほどしかなく、小さなふねなら陸を運んでこの地峡部を超えたという。

遣唐使はここを歩いて船を乗り換えた。
元寇の役古戦場小茂田浜
古戦場跡はきれいな海岸になって夏には海水浴場として賑うところだう。。
椎根石屋根
対馬でしか見られない珍しい建築物。
板状の石で屋根を葺いた高床式の倉庫。
厳原の武家屋敷に地区に樋口一葉の小説の指導者であり、恋人でもあった半井桃水(なからいとうすい)の生家跡がありコミュニティー支援交流館である半井桃水館が建っています。
厳原は古代には国府、中世から近世にかけて対馬藩主である宗家の居館がおかれ対馬の政治、経済、文化の中心として栄えた城下町でした。
いまでも街中に背丈より高い石垣(石塀)が多く残り往時をしのぶことができます。
対馬厳原をジェットホイルに乗って出航65分で壱岐郷ノ浦へ

前日旅館の仲居さんが明日は海が荒れて船が欠航するかもしれないと脅されましたが、無事運行しました。
釜山便は欠航したそうです。

壱岐は神話の島です。

魏志倭人伝には
「対馬より一つの海を渡り、千余里すすむ。この海の名は瀚海(かんかい)といい、一支国に到着する。・・・・・・・広さは方三百里ほどで、竹林や叢林が多く、三千ばかりの家がある。田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、対馬国と同じく南北から米穀を買い入れている。」

港でレンタカーを借りて早速、古墳めぐり。
国指定遺跡 双六古墳


古墳時代後期6世紀中ごろに作られ、全長91メートルを誇る長崎県下最大の前方後円墳。
大きな石材を積み上げたドーム型の天井があり、当時の技術の高さを知ることができる。
笹塚古墳
円盤状の台座に直径40メートルの円墳がのった二段築造の古墳。
石室からは亀の形をした金銅製品をはじめとした出土品のうち162点が国の重要文化財に指定されている。
百合畑古墳群
この地域には23基の小規模なこふんが集中。
ほとんどが横穴式石室である。
小さいながら前方後円墳です。
23基はとても回れませんでした。
百合畑16号墳
15号墳
いずれも古墳時代ッ後期のものです。
掛木古墳 国指定史跡
6世紀松に造られた円墳で、造られた当時は直径が約30メートルあったといわれる。
県内で唯一、くり抜き式家形石棺が置かれた古墳。
古墳内も見学できます。
壱岐島の北に勝本港があります。
この港を見下ろす高台に俳人河合曽良のお墓があります。

松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。

宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。
勝本港を見下ろす
壱岐は対馬に比べ田地の多いところでした。
段々畑は麦が青々と天に伸びていました。