古市古墳群

奈良盆地東南部の天理市から桜井市に跨る大ヤマト古墳群(大和古墳群・柳本古墳具・纏向古墳群からなる)を始めに、
佐紀盾列古墳群・馬見古墳群・百舌鳥古墳群に続いて奈良、河内の古墳群の中で主だった古墳群の最後に古市古墳群を歩いてきた。

2016年5月25日

百舌鳥古墳群と共に
世界文化遺産登録を目指す

日本有数の大型古墳が密集する古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、大阪府の東南部に位置する、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。

東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成されている。いずれも標高24メートル以上の台地や丘陵上にある。北部の誉田山古墳(伝応神陵)・仲津山古墳(伝仲津姫陵)・市ノ山古墳(伝允恭陵)・岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)などの古い古墳群と南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい一群とに分けられる。相対的序列は、仲津山古墳、誉田山古墳・仲津山古墳・津堂城山古墳、市ノ山古墳・墓山古墳、河内大塚古墳、前ノ山古墳、ボケ山古墳、白髪山古墳、高屋城山古墳になるであろ。

目下日本一の高層ビルのある近鉄大阪阿倍野橋駅から
準急でわずか16分、近鉄阿倍野橋駅

ここから藤井寺市役所へ行き、ウォーキングマップをゲット
市役所から徒歩で伝雄略天皇陵古墳へ

ここへは近鉄の高鷲駅(藤井寺駅の安倍簿橋寄り一駅手前が近い)


雄略天皇陵礼拝所 宮内庁書陵部監理
雄略天皇陵古墳(島泉平塚古墳)

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命大長谷王(古事記)、大悪天皇有徳天皇とも。


丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。考古学名は高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳、円墳、径76m)と平塚古墳(方墳、辺50m)(2つの古墳を1つとして治定)。ただし考古学的に検証されたものではない。


『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。

津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)

宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定されている。また国の史跡に指定されている。

前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。

これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。


後円部裾に八幡神社があります。

明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。

1980年に大阪府教育委員会が、1983年には藤井寺市教育委員会が発掘調査を実施。造り出しや二重の周濠(中堤幅30m、外濠25m)、石葺の外側堤(幅20m)の存在が確認された。また、周濠内の前方部左右近くの島状遺構(方墳形の祭壇)からは3体の水鳥形埴輪が出土。このほかにも衝立型や家形・盾形・衣蓋形、靫型の埴輪、円筒型など多彩な形象埴輪が発見された。

大和から河内へと古墳築造が移った初期の大王の陵墓ではないかと考えられている。
  • 墳丘長208m
  • 前方部 - 幅117m、高さ12.7m
  • 後円部 - 径128m、高さ16.9m
前方部周濠からの全景
前方部は一部削平されていた。
周濠が埋められて野原になってます。


このお寺はおまけ。西国三十三霊場は数年前に結願成就し、この葛井寺には平成五年二月七日に訪れています。


西国三十三霊場五番札所 葛井寺(ふじいでら)

寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)により8世紀中頃に創建されたとも推定されている

近くには渡来人が信仰したと推察される辛国神社がある。
仲哀天皇陵(恵我長野西陵)

第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。

考古学名は岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)。

『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。現古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神[お告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。




遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。『(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。

築造年代は5世紀後半。墳丘の長さは242メートルで、古市古墳群では4位、全国で18位の規模の古墳。中世に城郭として利用された形跡があり、当初の状態から大きく変化している。また、発掘調査によって外堤から円筒・盾型埴輪などが出土した。

「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられており、宮内庁によって仲哀天皇陵に比定されているが、古市古墳群の中でも後期に造られたと見られる点から、推定築造年代と時代が合う雄略天皇陵という説もある。また、横穴式石室の存在の可能性も指摘されている。

アイセルシュラホール

考古学・歴史系博物館施設をメインとする生涯学習センター。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター

館名の「アイセル」は、Activity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたもので、「シュラ」は藤井寺市で出土した古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」を意味する。館の外観は「船形はにわ」と「修羅」をイメージしてデザインしたものとされる。

歴史展示室では「倭の五王の時代」をテーマにした遺物(鉄剣・武具・埴輪など)を展示しています。


武人の甲冑
円筒埴輪棺
土師の里8号墳出土
古市古墳群の古墳は土師一族が築造に携わったと考えられている。

土師氏は天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。

古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。

大阪府藤井寺市、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。道明寺は土師氏の氏寺である。


津堂城山古墳出土水鳥型埴輪 日本最大
日本最大級かつ最古とされる「水鳥形埴輪」

津堂城山古墳の水鳥形埴輪は、昭和58年(1983年)に、北東側内濠の中の方墳状の特殊な施設に据えられた状態で見つかりました。この方墳状施設は、一辺17メートル、高さ1.5メートルで、表面には、墳頂の平坦面をのぞいて斜面一面に川原石が葺かれていました。水鳥形埴輪は、南側の傾斜面に造られた浅い凹みの上辺近くに据えられていたのです。
 



ほぼ同じぐらいの大きさのもの2体とやや小型のもの1体の、全部で3体あります。これらは、現在知られている中で最古のものです。また大きいものは高さ1メートルを超え、知られている中で最大です。円筒形の台にツバをまわし、その上に水掻きをもつ脚を載せ、水鳥の静止した状態を写し取っています。
 どのような種類の水鳥をモデルにしたのでしょうか。その大きさや、水鳥形の埴輪を製作する思想的な背景を考慮すると、コハクチョウをモデルにしたと考えることができます。
極めて写実的で、芸術の域に達したその造形には目を見張るものがあります。
衣蓋形埴輪(城山古墳)
盾形埴輪
船形埴輪

船形埴輪は全国で20数例が知られていますが、その大半は近畿、しかも大阪府と奈良県に集中しています。さらに出土した古墳は、円墳や方墳といった小型の古墳に限られるという特色をもっています。

船形埴輪は、古墳に葬られた人の社会的な役割と深い関係を暗示しているように思われる。
峰ヶ塚古墳

峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル・高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル・高さ9メートルの前方後円墳である。

江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。

墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
池の前方右手には清寧天皇陵古墳が見えています。

清寧天皇(せいねいてんのう)は、第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。
御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
雄略天皇の第三皇子。母は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。 后妃なし、従って皇子女もなし。

奥の山並みは葛城山系だと思うのですが、、、。
清寧天皇陵(白髪山古墳)

出土した埴輪などから古墳の築造は6世紀前半頃であったと考えられています。
いよいよこれから、日本武尊白鳥陵古墳を経て、応神天皇陵へ向かいます。
軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵古墳)


 日本書紀などによると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」と伝えられ、羽曳野市の名前の由来となっている古墳です。

軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里にある前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。

宮内庁により「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の陵に治定されている。

別称を「前の山古墳

古市古墳群に属す方墳で、一辺37メートル。墓山古墳に隣接し、第十五代応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳の陪塚(である墓山古墳の陪塚)「恵我藻伏岡陵ほ号陪塚」として宮内庁に管理されている。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、水鳥形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がされていた。葺石の存在も確認されている。
向墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある、前方後円墳の墓山古墳の東に接して築造された大型の方墳である。現在は墳丘の大部分を宮内庁によって「応神天皇陵に号陪塚」として治定管理されている。

これまでに、宮内庁管理から外れている墳丘裾部分などで道路拡幅や範囲確認のための小規模な発掘調査が羽曳野市教育委員会や大阪府教育委員会により行なわれ墳丘規模などが再確認されている。
向墓山古墳は墓山古墳の陪塚
向墓山古墳
丘は上下二段に構築されており、台地先端の地形を利用し、斜面に寄せかけて墳丘を構築することで実際の盛土以上に大きく見せている。各辺の推定長は東辺68.0m、西辺62.0m、南北両辺62.0m、高さは10.0m前後である。古墳時代中期の方墳としては最大級の規模に属する。

墓山古墳は応神天皇陵古墳の陪塚
宮内庁により第15代応神天皇の陵の「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」の陪塚に治定されている。また、1975年(昭和50年)2月22日に国の史跡に指定されている。

古市古墳群のほぼ中央、誉田御廟山古墳の南西に位置する。全長約225メートル、後円部径約135メートル、高さ約20.7メートル、前方部幅約153メートル、高さ19.3mメートル、古市古墳群では5番目の大きさである。墳丘は三段築成で、葺石と埴輪が確認される。くびれ部の両側には造り出しがあり、周囲に幅約15メートルの濠と幅約37メートルの堤をめぐらしている。
野中古墳(のなかこふん)は、大阪府藤井寺市野中3丁目に所在する古墳時代中期の古墳(方墳)である。鉄製の武器、武具、須恵器など大量の遺物が出土した。
墓山古墳の後円部北側に位置しており同古墳の陪塚とも推定されている。墳丘は2段に築成されており、一辺37m、高さ4m。周濠があり、葺石、円筒埴輪列、蓋(きぬがさ)、衝角付冑、囲形などの形象埴輪が存在し、墳頂部からは大量の須恵器、土師器が出土している。墳頂部地下には組合式木棺と木櫃からなる内部主体が5列に並列して埋納されており、人体埋葬が考えられるのは第2列の木棺のみで、他の4列はすべて、副葬品埋納施設と推定される。それらの施設からは短甲11領、冑11箇のほか、草摺、肩甲などの鉄製武具、鉄刀、鉄剣、鉄鏃などの大量の武器が出土している。大量の鉄製品、須恵質土器、武器・武具の副葬形態など中期古墳の研究の上で欠くことのできない内容の古墳である。5世紀前半から中葉頃の築造と考えられている
応神天皇陵 斜め前方側面から
案内板の応神天皇陵

誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)という。

宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されてい

名称は「応神天皇陵」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。

5世紀初頭の築造と考えられている。立地条件は、必ずしもよいとは云えない。それは、土質の安定した段丘と不安定な氾濫源という異質の土地にまたがって墳丘を造営しているためという。 また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。なお、前方部の一部が崩れているのは734年、及び1510年にこの地で内陸直下型の大地震があったためと考えられており、前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層の生駒断層帯が走っている

当古墳の規模について、羽曳野市の公式サイトでは以下の数値を公表している。

  • 墳丘長:約425メートル
  • 後円部直径:250メートル
  • 後円部高さ:35メートル
  • 前方部幅:300メートル
  • 前方部高さ:36メートル

ただし、どの部分を古墳の裾とするかには議論があり、これらの長さには諸説がある。しかしながら全長約420メートルという墳丘長は大仙陵古墳に次ぐ大きさであり、体積の143万3960立方メートルは日本一といわれ

応神天皇陵礼拝所の横に宮内庁書陵部の事務所が置かれていた
周りには二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48メートルの中提があり、その外に築造当時は幅約35メートルのもう一重の濠(外濠)のあった形跡があり、それを巡る外提は幅約15メートルあったと推定されている。
濠の水深は170~250センチ・メートルと大仙陵古墳と比較してかなり深い。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけであり、東側の外濠や外堤は築造されなかったことが明らかになっている
出土品には埴輪の種類が多い。円筒、キヌガサ、家、盾(たて)、甲(よろい)、草摺(くさずり)、水鳥など。内濠から土師器と共に魚形土製品が10個出土している。鯨、烏賊(いか)、蛸、鮫、海豚など。
礼拝所の脇に誉田丸山古墳

誉田丸山古墳(こんだまるやまこふん)は、円墳。古市丸山古墳とも呼ばれている。この古墳出土とされる金銅装馬具類が近在の誉田八幡宮に所蔵され、現在は国宝に指定されている。

宮内庁によって応神天皇恵我之荘藻伏岡陵の域内陪塚に治定され、墳丘への立入りは禁止されている。径50m、高さ7mの円墳である。造出しが付く可能性が指摘されている。墳丘の北側にそって窪地があるので、周濠があったようである。

古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長約110メートル、前方部の幅50メートル・高さ6.1メートル、後円部の直径72.6メートル、高さ12.3メートルである。墳丘からは葺石と円筒埴輪列が確認されている。くびれ部の両側に造出しがあり、幅の狭い水のない濠が周囲をめぐっている。

埋葬施設は不明であるが、副葬品として銅鏡2面、鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃が出土したと伝えられている。この古墳からは、円筒埴輪のほか、家形・蓋(きぬがさ)形・盾形・靫(ゆき)形・冑(かぶと)形などのさまざまな形象埴輪が出土している。出土した埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と考えられている
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長約150メートル、後円部径約96メートル、高さ約15.3メートル、前方部幅約100メートル、高さ約9.3メートル。墳丘は三段築成で、葺石が確認される。現在、くびれ部の東側のみに造り出しが残り、周囲に周濠と堤をめぐらしている。
、後円部頂に板石が見られることから竪穴式石槨の存在が推測される。墳丘には円筒埴輪列があり、家・衣蓋・盾・靫・冑形などの形象埴輪も確認されている。出土した埴輪の特徴から、仲ツ山古墳とほぼ同時期、5世紀前半の築造と考えられる。
墳丘の一部には住宅が建っているが、藤井寺市による公有地化が進められている。なお、宮内庁の管理地でないため、墳丘内には自由に立ち入ることができる。
墳丘の頂上からの藤井寺市街

仲ツ山古墳(なかつやまこふん、仲津山古墳)

宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。

誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長約290メートル、後円部径約170メートル、高さ約26.2メートル、前方部幅約193メートル、高さ23.2メートルで、古市古墳群で2番目、全国でも10番目の大きさを誇る。墳丘は三段築成で、葺石と埴輪が確認される。くびれ部の両側には造り出しがある。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。
仲津山古墳(伝仲姫命陵)の後円部に近接して築造された、一辺50メートル、高さ7メートルの方墳であり、濠があった可能性がある。内部構造は明らかでないが葺石と埴輪列が確認されている。円筒埴輪の他、家、盾、靫、蓋(きぬがさ)形の形象埴輪が用いられている。円筒埴輪には黒斑を有し、類似の埴輪が出土している仲津山古墳との関係がうかがえる。
1956年に国の史跡に指定された。なお、2001年に史跡の追加・統合指定が行われ、本古墳を含む14基の古墳が「古市古墳群」の名称であらためて国の史跡に指定されている。
写楽のフォトギャラリー
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藤井寺駅から徒歩10分程のところに藤井寺市役所があり、百舌鳥古墳群・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けて、様々な活動が行われていて、このウォーキングマップもその一環で作られたものであろう。