九州島 豊後・日向・肥後の遺跡巡り
 第一日 豊後  2016.4.12.

4月12日から15日にかけて羽田空港から大分空港へフライト、レンタカーで大分宮崎熊本と廻った。14日熊本山鹿温泉で大地震に遭遇
し、翌15日熊本空港から帰京。帰った日の翌未明さらに大きな地震が起こり空港は閉鎖され、被害が拡大していた。

周防灘に丸く突き出した半島の国東半島は、奈良時代から平安時代にかけて六郷満山と 呼ばれる仏教文化が栄えた所である。今もその遺跡が半島の至る所に散在し人々は「み 仏の里」と呼んでいる。
 
崖に刻まれた熊野磨崖仏に代表される石造物も多く、国東塔と呼ばれる独特の石塔も見 ることが出来る。
国東市国東町の田深川下流部の南岸に位置する“弥生のムラ安国寺集落遺跡公園”。

平成4年には国指定史跡となり、平成10年に体験学習館ができ、平成13年3月に全体が完成したものです。 今から約1800年前の弥生時代の居住体験や稲作体験、発掘体験、弥生時代の暮らしなど、さまざまな体験ができる体験型史跡公園である。
弥生時代の集落跡や集落を囲む溝状遺構・土器・石器・建物部材や 木器・種実類等の出土がみられた。特に二重口縁の幅広い部分に特殊な櫛目模様を施す土器がみつかり、遺跡名を付して「安国寺式土器」と いう名で呼ぶことになった。

安国寺集落遺跡の高床建物群をめぐる溝です。弥生時代の川の跡と考えられています。

竪穴式住居が復元されている。
出土した柱穴と建築部材であるハシゴ柱、床板などをもとに、高床式住居、高床倉庫を復元。
応永元年(1394年)木付頼直によって築かれた城。昭和45年に復元された天守閣には、藩主の遺品などを展示する。周辺の城山公園内には、国東塔、五輪塔、石仏などを集めた石造物公園がある。
杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。
戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。城跡は、公園として整備され、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が建てられている。
山上は城山公園として整備され、一部石垣が残る。天守は慶長13年(1608年)に落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。
城から北に1キロ弱いったところに北台武家屋敷があり、途中に“勘定場の坂”があります。 ここが杵築一番の観光名所となっている場所です。 そこから南には“南台武家屋敷”、少し離れて寺町などがあります。この杵築には消えかけた日本の城下町の面影がよく残っています。
この坂の周辺のたたずまいも昔の風情が残っており、なかなか良い場所です。“勘定場の坂”を 登った所が“北台武家屋敷”で、“藩校の門”や“大原邸”などがあり、道の両脇は昔ながらの土塀 などがあり、いかにも武家屋敷といったたたずまいです。
中国の観光客が和服を着て回っていました。
藩校の門
亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市里にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。



築造時期は4世紀末から5世紀前半と推定されている。
大分県では最大規模の古墳で、5世紀初頭の築造と推定される。近年の住宅地開発などで周辺の古墳調査が進み、一帯は「亀塚古墳群」として認知されつつある。
墳丘は前方部を南に向けた3段構築で、全長116メートル(前方部長52メートル、後円部直径64メートル)、高さは前方部7メートル・後円部10メートルで、西側のくびれ部に造出しがある。

前方部を行くボラティアガイドと旅仲間
墳丘は白い石英質の葺石で覆われていた。
古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。
墳丘の葺石は築造当時の物を一部に使用して復元されている。
埋葬施設は前方部墳頂に2つ設けられており、第1の埋葬部には長さ3.2メートルにもおよぶ大形の箱型の組合せ式石棺が埋められており、第2の埋葬部はその東側に後から設けられた。すでに盗掘を受けていたが、短甲・鉄刀の破片、滑石製の勾玉、碧玉製の管玉、ガラス製の小玉などが出土している。

臼杵石仏(磨崖仏)

うすきせきぶつ(まがいぶつ)

古園石仏大日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。
その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されました。

ホキ石仏第二群

(ほきせきぶつだいにぐん)

2龕(がん)からなる。

。第2龕は、「九品の阿弥陀」と呼ばれ、比較的小さな仏像が彫られています。
第1龕には阿弥陀三尊像が見事な技術で掘り出され、その堂々とした軀体、中尊と両脇侍のそれぞれに異なった豊かな表情など、まことに見事な磨崖仏です。

山王山石仏

(さんのうざんせきぶつ)

中央に丈六の如来像と左右に脇侍の様に如来を刻む三体の如来像で構成されています。仏像の顔は輪郭が丸く、目鼻はこじんまりとして童児のそれをおもわせ、今にも語りかけるような口もとなどは、邪気のない純真無垢な童顔そのものです。通称「隠れ地蔵」と言われています

大日如来像

古園石仏

(ふるぞのせきぶつ)

古園石仏は、大日如来像を中心とする曼荼羅を構成し整然とした陣容をそなえる、臼杵石仏の中心的存在。通称古園十三仏とも、大日山石仏とも言われています。
特に中尊の大日如来は日本の石仏の中でも最高傑作の一つといえます。
- 高く秀でた眉、切れ長の伏し目に端正な顔、ほのかに紅を刷いた唇にあたたかい御心が通う。-
きわめて端厳な相好ですが、ゆたかな両頬や、ややとがった二十頤、切れ長の伏し目など幽玄で神秘的な雰囲気がただよいます。

制作年代は、平安後期を下らないと言われています。崩壊破損が甚だしかったのですが、修復工事(S33~)により平成5年8月25日には中尊大日如来の仏頭が復位され、昔日の荘厳な姿に復旧しました。
大日如来像
第三日 日向国から肥後国へ
第二日 日向高千穂から宮崎へ
写楽の古代史へ
写楽のフォトギャラリー 
山鹿温泉 清流荘


最後に良い旅館に泊まれました。
百年以上の歴史があるそうです。
西郷従道公の遺蹟
旅館の隣は造り酒屋
江戸時代から山鹿のメインストリートとして栄えてきた豊前街道は、現在も当時の面影をそのままに、情緒たっぷりの町並みを残しています。
豊前街道の町並み
八千代座

明治43年、山鹿の実業家"旦那衆"の尽力によって建てられた「八千代座」。ドイツ製のレールを使った廻り舞台や桝席・花道など充実した機能を持ち、江戸時代の歌舞伎小屋の様式を今に伝えています。木戸口をくぐれば、そこは非日常の世界。八千代座華やかりし明治・大正の熱気や、観客たちのざわめきが聴こえてくるようです。
八千代座(やちよざ)は、熊本県山鹿市にある芝居小屋。1910年に建設され、1988年に国の重要文化財に指定された。その後復元修理が行われ、2001年に竣工した。
1910年、山鹿の旦那衆が組合を作り、町の繁栄を図るために1株30円の株を募って建てた。設計者は回船問屋の主人で灯籠師でもあった木村亀太郎。当時の山鹿は菊池川の水運、豊前街道を利用した水陸交通の要所で、物資の集散地、屈指の温泉場として賑わっていた。同年10月上棟式、12月竣工。
その後、歌舞伎、浪花節、活動写真、新劇、邦楽やクラシックのコンサート、小学校の学芸会と様々な催しものに利用された。昭和になると第2次世界大戦を経て、人々の嗜好の変化、映画からテレビと娯楽の変遷があり1973年(昭和48年)の老人会の総会を最後に八千代座は閉館、1980年(昭和55年)八千代座組合は建物を山鹿市に寄贈した。
木戸を入ったところ。
正面舞台
客席は舞台に向かって傾斜してます。

ご案内の女性は饒舌で時間が無くなりました。
天井には明治の建築当時に建設費を負担した商家の広告
遥か昔から山鹿の地に伝わる「山鹿灯籠」。その灯籠が多数展示されているのが「山鹿灯籠民芸館」です。大正14年建築の銀行を改装した建物は、ひときわ目を惹くモダンなデザイン。館内では、現役の灯籠職人によるミニ灯籠づくり体験も行っています。
山鹿灯篭祭のポスター

大宮神社の祭礼8月15,16日におっこなわれるそうですが、宿はすでに満員です。
山鹿灯籠民芸館内


金灯篭
静岡浅間神社
灯篭は和紙と糊だけで職人の勘で作るのだそうで、今は灯篭士が6名いるのだそうです。
チブサン古墳

熊本県山鹿市にある全国的に有名な装飾古墳で、全長45m(後円部径24m、前方部幅15.7m)の前方後円墳です。近くにはオブサン古墳、鍋田横穴群、弁慶が穴などが点在しています。
 古墳時代6世紀頃に造られたもの。石棺の正面の石板装飾の絵柄が女性の乳房に似ているところから「乳の神様」として現在も信仰が続いています。



ここで大失敗
石室の公開時間が10時だったのですが30分遅れで見られませんでした。
この日は平日、また大地震の翌日で
10時の見学者はいなかったようですが

融通きかせて見せてくれればよかったのですが、お相手は役人さんで無理でした。
これは外にあるレプリカ
円形の目玉みたいな丸がお乳に見えるのでチブサン古墳と名づけられたたそうです 。
オブサン古墳は、チブサン古墳の近傍にある円墳である。熊本県の「風土記の丘」構想をもとに、典型的で雄大な横穴式石室として公開できるよう整備を進めることとし、昭和59・60年に熊本県教育委員会が発掘調査を実施した
 オブサン古墳は6世紀中ごろのチブサン古墳に後続する首長墓で、6世紀後半に築造され7世紀前半まで追葬がなされている。。なお、江戸時代以来、チブサン古墳の壁画図像からくる「乳房信仰」とともに、オブサン(うぶさん=産さん)古墳は「お産」の神様として信仰の対象となり、両者は一体として意識されてきたものである
円丘から突出する張出し部をもつ特異な構造、前庭部列石を含めた全長16.5メートルの石室規模、貴重な壁画装飾をもつことから、チブサン古墳とともに、熊本県を代表する古墳のひとつといえる。よってオブサン古墳を追加指定し、「チブサン・オブサン古墳」として両者あわせて保存を図ろうとするものである
石室内






第四日 山鹿温泉・山鹿市立博物館 帰京  2016.4.15.
塚原古墳群

昭和47年(1972)、九州縦貫自動車道開通工事に伴う発掘調査により知られるようになり、自動車は遺跡の下をトンネルで通る形で保存が行われることになりました。

昭和51年国指定史跡となり、昭和61年より史跡公園化の工事が始まりました。約15万平方メートルにおよぶ公園内には、復元された77基の古墳や古墳内部の観察室・古墳の復元模型・竪穴式住居など各所に配置され、野外の古代博物館を散歩している気分にさせられます。

現在確認されている古墳は200余りで、まだ300程の古墳があるだろうと推定されています。公園内には天文台もあり、週末には天体観測も楽しめます。

塚原古墳群にある熊本市立歴史民俗資料館

縄文時代
貝で制作された仮面
免田式土器


土器の形は、胴部がそろばん玉の形のようになっていて、やや開き気味に上に長くのびた円筒状の首 (長頸) をもち、胴部の上半面には、同心円紋を半分に切った紋様(重弧文)やノコギリの歯のような形状の鋸歯紋(三角紋)、短い斜め線の綾杉紋や平行紋を描いています。この土器は、弥生時代に作られたもの中では一番気品があるといわれ、お墓などにお供えされた特別な土器といいます。
台付舟形土器
弥生時代後期(約1800年前)の土器で、その形が舟の形をしているのが特徴です。酒器として使われたと思われ、胴部の端に円形の注ぎ口と考えられる部分があります。
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)
塚原古墳群

花見塚古墳と呼ばれ熊本県熊本市南区城南町塚原北原の台地上にあります。訪れる場合の目印とするものは、塚原古墳公園です。
 墳丘は破壊はうけていますが墳丘の一部が残っています。
前方後円墳レプリカ
復元されています。
方形周溝墓
熊本城
別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。
この日の夜、熊本地震で石垣が破壊され
大天守、小天守の瓦が落下
修復には相当の時間と労力とお金がかかりそうです。

加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年の再建である

この長壁の先の櫓の石垣が崩れ落ちました。
この門の石垣も破壊されたようです。
こんなきれいな姿がまた見られるのは
 何時のことになるでしょう。
現存する宇土櫓などの櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。
江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで著名である国の史跡に指定されている。
江田船山古墳
前方後円墳

この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測され、墳丘長62メートルあり、盾形の周濠をもつ。古墳は1873年(明治6年)以降発掘され、豊富な副葬品が出土している。これらの大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定されている
整形をなし、しかも特殊な外観を示し、後円部に組合式家形石棺が置かれ、とくに銀象嵌銘の鉄製大刀が出土したところから古代文化を知るきわめて重要な遺跡として1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定された。

出土品が「肥後江田船山古墳出土品」の名称で、一括して国宝に指定されている(東京国立博物館蔵)。

  • 銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)1口
  • 金銀錯竜文鐶頭大刀(きんぎんさくりゅうもんかんとうたち)1口
  • 銀荘鐶頭大刀 1口
  • 刀剣類
    • 大刀身 11口
    • 剣身 6口
    • 銀刀荘具 一括
    • 鉾身 3口
    • 鉄鏃(てつぞく)残欠共一括
  • 銅鏡
    • 神人車馬画象鏡 1面
    • 画文帯神獣鏡 3面
    • 獣帯鏡 1面
    • 変形四獣鏡 1面
  • 玉類
    • 硬玉勾玉 1箇
    • 石製勾玉 2箇
    • ガラス勾玉 2箇
    • 碧玉管玉 24箇
    • 水晶丸玉 1箇
    • 銀製丸玉 1箇
    • ガラス玉 一括
  • 金鐶 1対
  • 耳飾
    • 金製長鎖三連式耳飾 1対
    • 金製心葉形垂飾付耳飾 1対
  • 冠帽類
    • 金銅竜文透彫冠帽 1箇
    • 金銅忍冬文冠帯金具残欠 1箇
    • 金銅亀甲文冠帯金具残欠 1箇
  • 金銅斜交文飾金具残欠 一括
  • 金銅飾履(しょくり)1足
  • 金銅帯金具 1箇
  • 金飾金具残欠 8箇
  • 甲冑類
    • 鉄衝角付冑(しょうかくつきかぶと)1頭
    • 鉄短甲 残欠共 2領分(横矧板鋲留短甲、横矧板革綴短甲)
    • 鉄頸甲(あかべよろい)残欠 1領分
  • 馬具類
    • 鉄轡(くつわ)鉄地金銅張鏡板付 1具
    • 鉄轡 1具
    • 鉄輪鐙(わあぶみ)1対
  • 銅鐶鈴 1箇
  • 須恵器
    • 蓋碗 1箇
    • 提瓶残欠 1箇
京塚古墳
清原古墳群中の一基だが、他の前方後円墳3基と違い、国指定史跡の範囲外。
古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されている。
石貫ナギノ横穴群

所在地:玉名市石貫字後田2386
 繁根木川右岸には、灰石と呼ばれる阿蘇溶結凝灰岩の崖面が多くあり、その崖面250メートルほどの範囲にわたって横穴墓が造られています。

飾縁(横穴墓入口の縁部分)には、赤などで文様が描かれており、内部には屋根形の浮き彫りや太刀のレリーフなど多様な装飾が施されているものもあります。特に6号墓と8号墓の飾縁は赤の円文などで鮮やかに装飾されており、横穴墓としての規模も大きく玉名市が全国に誇る装飾ある横穴墓です。
これらは古墳時代後半に造られた墓地で、遺体を置く部分(屍床)が多いもので一つの横穴墓につき3ヶ所設けられています。
熊本県立装飾古墳館へ

田横穴群は、菊池川と岩野川が合流している場所付近にあります。岩野川の西側に切り立った崖(がけ)があり、崖面に横穴が60基掘られています。

    この横穴は何のために造られたのでしょうか。穴の形が家のように見えるので、人が住むところと考えられていたときもありましたが、現在では古墳時代末期の墓ということが分かっています。横穴は凝灰岩(ぎょうかいがん)の崖に掘られています。凝灰岩は岩石のなかでは軟らかく、鉄のみで少しずつ岩を削って、家の形をした大きな穴を完成させています。

広開土王碑文の拓本
千金甲1号墳石室(復元)

山鹿市を流れる菊池川支流の岩野川右岸、標高約45メートルの平小城台地の東端に位置する。周辺には装飾古墳(上流に城横穴群、付城横穴群、馬塚古墳)が多く分布する地域である。

6世紀初めの古墳時代に築造された前方後円墳である。

後円部南に羨道をもつ、前室・後室の複数の横穴式石室を設け、石室内の石屋形(いしやかた)内壁と屋根の軒部前面に装飾文が描かれている。内側石の上段に白の円文7個、下段に冠をつけ両手、両足を広げた人物像とその右に三角文を白色で、その他は赤色で塗っている。正面の側石に三角文・菱形文を主体に正面中央に円文を描き、赤・白・青の三色で塗り分けてある。 特に、中央に描かれている装飾の紋様が女性の乳房に似ていることから、「乳の神様」(別称)として現在に至るまで崇められている。



翌日、実物が見られる予定でしたが
残念ながら・・・・・・・。
これも装飾古墳

大坊古墳石室
岩原古墳群

この古墳群の一角に熊本県立装飾古墳館があります。













高千穂峡(たかちほきょう)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川にかかる峡谷である。国の名勝、天然記念物に指定されている(五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷))。

真名井の滝(まないのたき)は、高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝である。日本の滝百選の一つ。

峡谷の崖上は自然公園となっており、その中にある「おのころ池」より流れ落ちる水が真名井の滝となっている。

神話によれば天村雲命(あめのむらくものみこと)という神が天孫降臨の際に、この地に水がなかったので水種を移した。これが天真名井として湧水し、滝となって流れ落ちているといわれている
高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する神社である。国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社であるが、近代社格制度上は村社にとどまった。現在は神社本庁の別表神社となっている。
高千穂皇神は日本神話の日向三代と称される皇祖神とその配偶神(天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命)の総称で、十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命(みけぬのみこと)とその妻子神9柱(三毛入野命の妃神である鵜目姫(うのめひめ)と、両神の御子神である御子太郎(みこたろう)二郎(じろう)三郎(さぶろう)畝見(うねみ)照野(てるの)大戸(おおと)霊社(れいしゃ)浅良部(あさらべ))の総称とされる。
高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。
天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。旧社格は村社で、神社本庁の別表神社。
手力男命戸取像
 
天岩戸神楽30番戸取(手力男命が岩の戸を取り払い給う舞)の像です
天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)
鳥居
西本宮が拝する天岩戸に由来する。昭和45年に合併し、現在のごとく天岩戸神社東西両本宮を称すようになったが、それ以前の旧称は西本宮が「天磐戸神社」
東本宮 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)=天照大神の別名で皇祖神であることを示す名。かつてイザナギノミコト・イザナミノミコトを祀っていたとする史料もある


東本宮は「氏神社」であった。 東本宮はかつて「天磐戸大神宮」とも呼ばれ、この名は今でも西本宮社務所で授与される神札の銘「天岩戸大神宮」に残り、また地元年配者を中心に通称として用いられている。
宮崎県立西都原考古博物館

西原古墳群は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓11基、横穴墓12基もの多くの古墳が集まっている全国的にも非常にまれな古墳群です。現在までの発掘調査によって、古墳は4~7世紀前半にかけて作られたものだと思われます。
西都原170号墳出土
舟形埴輪複製)
西都原13号墳出土
三角縁神獣鏡
1500年前の刀剣錆を落とし磨きあげられたもの
西都原古墳群
当日は生憎のの雨模様で霞んでます。
17号墳
女狭穂塚は九州では珍しいくびれ部に造出(つくりだし)を持つ九州最大の畿内式前方後円墳、男狭穂塚は全国最大の帆立貝形前方後円墳です。 明治28年、宮内庁により御陵墓参考地に指定されました。
女狭穂塚

宮内庁陵墓参考地につき立ち入り禁止


大きさは、全長約180メートル、後円部直径約96メートル、後円部高さ15メートルで、九州地方最大の前方後円墳である。墳丘は三段築成で造られ葺石をともない、周囲には周濠がある。また、くびれ部には造出を持っているため、この特徴から畿内式前方後円墳であることがわかる。築造方法などから、およそ5世紀前半中頃に造られたと推定されている。主体部分である被葬者の埋葬施設は、まだ発掘調査がなされていない。
男狭穂塚

男狭穂塚(おさほづか)は、宮崎県西都市にある帆立貝形古墳。西都原古墳群に属し、帆立貝形古墳では日本最大の古墳である。


大きさは、全長約175メートル、後円部直径約132メートル、後円部高さ約18メートルで、日本最大の帆立貝形古墳である。墳丘は三段築成で造られており、周囲には幅約20メートルの内側は深く外側が浅い2重の周濠がある。築造方法などから、およそ5世紀前半中頃に造られたと推定されている。
前方後円墳
生目古墳群は、今より約1700年から1500年前(古墳時代前期~中期)にかけてつくられた古墳群(豪族のお墓)で、その規模は九州でも最大級。100mを超える前方後円墳が存在しており、昭和18年に国指定史跡になるなど、以前から注目されてきた古墳群でした。
15号墳

生目古墳群は、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた、古墳時代前期から中期(約1700年前から1500年前)の古墳群です。この丘陵は大淀川右岸に位置しており、東には宮崎平野を見渡すことができます。

生目古墳群は51基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基があります。その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言えます。

14号墳

生目3号墳

 

 

長さ143m、高さ12.7mの3号墳は古墳時代前期では九州最大の前方後円墳。さらに、実際に立ち入ることができる古墳の中では古墳時代全時期を通して九州最大のものです。