昨年2021年7月、「北海道・北東北縄文遺跡群」は、日本初の先史時代の文化遺産として 世界遺産一覧表に記載された。 昨年6月を皮切りに登録遺産巡りをしてきましたが、今回の秋田行が最後となりました。 JR東日本の大人の休日俱楽部フリー切符を使って行きたかったので山形・新潟と観光もかねて 主に縄文遺跡関係巡りをしてきました。 初日は東京から盛岡まで東北新幹線をりようし、盛岡からはレンタカーで1時間半ほどのところにある 「大湯環状列石」を訪れました。 |
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秋田県北東部の鹿角市に所在し、米代川の支流である大湯川沿岸、標高約180メートルの台地上に立地します。 食料となるサケ・マスが遡上し、捕獲できる河川の近くであり、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。 |
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万座(まんざ)環状列石(最大径52メートル)と野中堂(のなかどう)環状列石(最大径44メートル)の二つの環状列石があり、いずれも大小の川原石を様々な形に組み合わせた複数の配石遺構を環状に配置し形成されています。 | |
二つの環状列石のそれぞれの中心の石と日時計状組石は一直線に並ぶような配置となっていることから、両者を関連づけて構築した可能性は高いと考えられます。また、この直線上は夏至の日没方向ともほぼ一致します。 | |
それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが同心円状に配置されています。 | |
環状列石の周辺からは、土偶や土版、動物形土製品、鐸形土製品、石棒、石刀などの祭祀・儀礼の道具が数多く出土しています。 大湯ストーンサークル館は、特別史跡大湯環状列石のガイダンス施設です。 遺跡で出土した遺物が様々展示されています。 |
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遺跡は1931年(昭和6年)に発見され、約130メートルの距離をおいて東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている |
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右側が万座(まんざ)環状列石(最大径52メートル)と左側野中堂(のなかどう)環状列石(最大径44メートル) | |
万座環状列石 | |
日時計状組石 これは野中堂遺跡の模型 |
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万座環状列石の周囲23メートルの環内からは多数の掘立柱建物跡とフラスコ状土坑などが 見つかっている。 これらの建物は炉を伴わないこと、まつりや祈りの道具を伴うこと、 環状列石と関係のある位置にあることなどからまつりや祈りを行った建物と考えられている。 また、フラスコ状土坑はまつりの期間中の食料を蓄えておく穴で栗。クルミ、トチなどの実が 貯蔵されていた。 |
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フラスコ状土坑 | |
掘立柱建物 | |
様々な石鏃、石斧 | |
土偶 多産を祈る女性型が多い | |
人型土偶 サルの顔のようですが・・・・・・・・・・・・ |
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土版 数を記録したものだろうか? | |
次の訪れたのは大湯から車で1時間半ほどのところにある伊勢堂岱遺跡 近年建てられた縄文館の展示は大湯のストーンサークル館に比べると格上の感がした。 |
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世界遺産登録を契機に統一されたのだろうか、何処も同じ看板。 |
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秋田内陸縦貫鉄道の縄文小ヶ田駅南方の湯車川をこえた標高40 - 45メートルの河岸段丘の北端台地の上にあり、国内で唯一4つの環状列石が発見された遺跡である。 保存状態が良く、学術的な価値が高いことから2001年1月に国の史跡に指定された。また、2021年7月27日に世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する遺跡の一つでもある。 |
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この列石は環状がよくわかる、Aのサークル。 縄文時代後期の遺跡で、A - Dの4つのストーンサークルや掘立柱建物跡、 土坑墓、土器埋設遺構、捨て場、フラスコ状土坑、日時計型組石などから構成されている。 ストーンサークルAは直径が約32mで上空からの平面形がメロンのような形をしており、 つるの部分が特徴的である。祭祀の際の特別の通路として機能していたのではないかとの 指摘もある。 |
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Dのサークル ストーンサークルDは直径約36mで石の密度はやや低い。ストーンサークルCとストー ンサークルDは半分程度発掘調査が終了しており、発掘技術が向上後に残りの部分 を発掘する予定である。 4 |
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白坂遺跡出土の岩偶 | |
実にひょうきんな顔をしている | |
伊勢堂岱遺跡から出土した板状土偶 | |
祭祀に使われたのもだろうか? 情勢のように見えるのだが、完全な形で出土したものは200点中これ1点だそうです。 |
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4つのストーンサークルからやや離れた場所に、日時計型組石が数個ある。これは大湯環状列 石と同じように、この組石の中心からストーンサークルAを見ると、夏至の日に太陽が沈む位置 とだいたい一致する。ストーンサークルAは直径が約32mで上空からの平面形がメロンのような 形をしており、つるの部分が特徴的である。祭祀の際の特別の通路として 機能していたのではないかとの指摘もある。 |
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伊勢堂岱遺跡から出土した様々な種類の土器類 | |
これは深鉢土器 縄文時代後期(4000年位前) | |
左から大型土製品、耳飾り、中央はミニチュア土器、右下土製玉、その上はきのこ形土製品 | |
左は動物形土製品、中央は鐸形土製品、右赤彩壺 | |
赤彩壺の右下には石棒、石刀・石剣、奥は切断された壺その右はひょうたん型土器 | |
壺の数々 縄文時代後期 | |
動物形土製品、 サルやイノシシや鳥など |
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貝殻模倣腕輪、ヒスイ玉 | |
土偶 人型 |
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女性の土偶?妊娠している様子、 顔はサルの様です。 | |
人面土偶 | |
ヒスイの玉 と勾玉 奥の黒いものは黒曜石 | |
翌朝24日は羽越線に乗って九十九島で名高い象潟へ | |
象潟に到着 同行の氏は記念に駅をパチリ | |
蚶満寺(かんまんじ)山門 秋田県にかほ市に所在する曹洞宗の寺院。山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。 古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、 象潟や 雨に西施が ねぶの花 と句をよんでいる。 |
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本堂 | |
本堂の扁額と本坪鈴 | |
鐘楼 | |
松尾芭蕉が『奥の細道』でよんだ句の碑が建ってます。 | |
松尾芭蕉の像 | |
西施像 |
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九十九島の中に建つ蚶満寺 庭園案内 | |
九十九島 象潟は、鳥海山から噴出した泥流が海水の浸食で削られ、入り江状の潟に 大小の島々が浮かび、江戸時代までは、九十九島・八十八潟と呼ばれ、 「東の松島 西の象潟」と称されるほどの景勝地であった。 |
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1804年、マグニチュード7.1(推定)の象潟大地震により地盤が2.4mも隆起し、 天下の名勝は一夜にして陸地となり、今では田んぼの中にかつての島々が 小山として残る。田植え前には、水の張った水田にこれらの小山が写り、 あたかも潟に浮かぶ小島のように、当時の姿がよみがえる。 |
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文化元年(1804)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地となった。 当時の島々は現在、水田に点在し、春の田植え時は水面に浮かび往時をしのばせ、 夏は深緑、秋は黄金色、冬は雪景色の中と四季折々の風情を見ることができる。 「象潟」は昭和9年に国の天然記念物に指定されている。 |
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道の駅 展望台から九十九島 | |
松尾芭蕉が訪れたころの九十九島は海の中に浮かぶ島々がさぞ絶景であったのでは | |
海岸はすぐ後ろに | |
岩ガキを頂きました 1個1200円と決して安くはありませんでした。 | |
象潟から酒田市内へ | |
観光名所 山居倉庫 山居倉庫は1893年(明治26)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、旧庄内藩酒井家により最上川と新井田川に挟まれた通称「山居島」に建てられた。 舟による米の積み下ろしに便利な立地で、12棟の巨大な木造の倉庫を連ねた美しい建物と、最上川側のケヤキ並木が独特の風情を伝えている。 建設された14棟のうち12棟が残っており、現在も米穀倉庫として使用され、一部は「庄内米歴史資料館」や観光物産館として活用されている。 |
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万治2年(1659年)に出羽国村山郡の幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らにより 西廻り航路が開かれ、酒田港は西廻り航路の起点となった。最上川の舟運より運ばれた紅花や米 、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、大坂、さらには江戸に運ばれた。 |
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日和山公園内の池に浮かぶ北前船 「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある鐙屋(あぶみや)や本間家は大商人 になった。中でも本間家は戦前までは日本一の大地主としても知られており、 『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と謳われるほどの財力を誇った。 |
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河村瑞賢の銅像 1657年に起こった明暦の大火後の江戸再建に手腕を発揮し、さらに新川の開削工事を 成功させた瑞賢は、その実績を幕府に買われ、数々の公共事業の プロジェクト・リーダーとして活躍します。 1671年から1672年に整備された東廻り・西廻りの海運航路は、瑞賢をリーダーとして 進められた一大国家プロジェクトでした。 |
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明治時代の灯台 | |
舞娘茶屋 相馬樓 竹久夢二美術館江戸時代から酒田を代表する料亭であった「相馬屋」を改装し、 2000(平成12)年3月に開樓しました。 木造の主屋は、1894(明治27)年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を 取り囲んで建てられたもので、1996(平成8)年11月、国の登録文化財となっています。 |
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伝統に新しい息吹を加えて修復した相馬樓は、1階の20畳部屋を「茶房くつろぎ処」とし 、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場に、また、かつての厨房は酒田舞娘の けいこ場となっています。 |
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相馬楼 二階広間床の間に飾られた芸妓を描いた掛け軸 | |
酒田駅前の海岸海は少し荒れていましたが、梅雨真っ只中にも関わらず傘要らずでした。 酒田から再び羽越線の特急電車に乗ってこの日宿泊するあつみ温泉へ向かいました。 |
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あつみ温泉にて温泉と美味しい料理を堪能してこの日は新潟へ 初めの遺跡は弥彦山の近傍にある古墳時代前期の菖蒲塚古墳へ |
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角田山東麓の台地先端部にある。本古墳は菖蒲山金仙寺境内に所在し、 |
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内部主体は明らかでない。石室を有しない木棺直葬ではなかったかと推定されている。 | |
越後線巻駅まで戻って再び新潟駅に戻り、信越本線に乗換古津駅へ 駅から徒歩で国指定遺跡の 古津八幡山遺跡へ向かいます。 古津八幡山遺跡は 新潟県新潟市秋葉区古津、金津および蒲ヶ沢にまたがる遺跡。遺跡の中には、 |
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新津丘陵西側の尾根に立地する、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺跡である。 |
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古墳時代前期のもので、直径60メートルの円墳で北側に張り出している。 かつて集落があった新津丘陵の尾根の先端に築かれた。 墳頂部分が広く、古墳の南側には周溝が残る。 同時期の住居は無く、単独で古墳が存在する。 首長の墓と考えられる。 新潟県内最大規模であり、菖蒲塚古墳を上回っている。 |
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環濠の内部や溝で区画された丘陵の頂部に建設。平面形は、隅丸方形。1辺4-5メートル。 4本の主柱穴や貯蔵穴、中央部分に炉があるのがほとんどである。排水溝あり。 |
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弥彦山が遺跡から見えた | |
環濠 周溝 | |
前方後方形周溝墓 環濠に囲まれた丘陵頂上部で単独で発見。出土物は少なかった。集落廃絶直後の、 弥生時代末期の物と考えられる。 |
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環濠集落遺構 |
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内環濠の印 | |
周溝 | |
竪穴住居を復元 環濠の内部や溝で区画された丘陵の頂部に建設。平面形は、隅丸方形。1辺4-5メートル。 4本の主柱穴や貯蔵穴、中央部分に炉があるのがほとんどである。排水溝あり。 |
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弥彦山を望む | |
尾根頂上の標高は53メートル。2005年におよそ11.5ヘクタールが国の史跡に指定される。 北陸系の高地性環濠集落としては最北端である。 |
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高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の 標高差があり、平野や海など周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成された 集落である。 |
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弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が主たるものであり 、これらはコメの生産地となる水田に近い平野部や台地上に形成されていた。 |
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。それに対して、農作物を大量生産するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から 、弥生時代中期 - 後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、 「逃げ城」や「狼煙台」などの軍事目的の集落であったなど、その性質をめぐって 様々な議論が提起されている。 |
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高台に作られた高地性集落の古津八幡山遺跡 | |
出土した土器類 八幡山式土器 | |
前日古津八幡山遺跡のあと信越線で長岡へ 長岡にて地元の居酒屋とスナックで同行の氏の故郷の夜を楽しんだ。 翌日は朝一番のバスに乗って馬高・三十稲場遺跡に向かう。 |
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関原南バス停から5分で遺跡に到着 | |
ここは馬高遺跡 縄文時代中期の遺跡で 信濃川西岸の丘陵上に立地している。 沢をはさんで西に隣接する縄文時代後期の三十稲場遺跡と併せて |
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北陸地方の縄文時代中期に特徴的な火焔型土器の出土が特に有名であり 出土した土偶は「ミス馬高」と呼ばれている。 |
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1979年2月には三十稲場遺跡とあわせ「馬高・三十稲場遺跡」として、国の史跡に指定された。 |
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三十稲場遺跡は雑草が生い茂ってました。 | |
火炎土器を集めたタミュージアム | |
火炎土器とは、この一個の深鉢につけられた愛称です。関原町の近藤篤三郎が1936(昭和11)年 の大みそかに発見した、と伝えられている。 口縁部の装飾的な突起が燃え上がる炎をイメージさせるところから、その名前が生まれた。 |
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考古学者・中村孝三郎の研究によって「火焔型A式1号」と分類され、 火焔型土器の基準資料となり、新潟県はもとより日本の縄文文化を象徴する存在となった。 |
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馬高遺跡出土 縄文時代中期 重要文化財 | |
A式2号 馬高遺跡出土 縄文時代中期 重要文化財 | |
王冠型土器 上に伸びた突出した角の間に炎の装飾がない。 馬高遺跡出土 縄文時代中期 | |
王冠型土器 | |
王冠系土器 馬高遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 浅鉢 馬高遺跡出土 縄文時代中期 |
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馬高遺跡の所在する関原の位置関係 | |
遺跡は信濃川の西岸丘陵上にあり、近隣にも縄文時代の遺跡が点在する。 | |
B群土器(栃倉類型) 馬高遺跡出土 縄文時代中期 重要文化財 | |
C群土器(塔ヶ崎類型) 馬高遺跡出土 縄文時代中期 重要文化財 | |
火焔型土器と王冠型土器の違い 火焔型は4っつの突起の間に炎形のフリルが付く。 |
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火焔土器様式が登場する以前の信濃川流域には、北陸地方と共通した土器様式が展開し、 東北地方南部、関東地方、長野県地方など、周辺の様々な土器様式の影響が入り込んでいた。 それらの特徴をうまく融合して成立したのが火炎土器様式である。、 |
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火炎土器以前の在地の土器 | |
様式初期段階(火焔型) 縄文時代中期 山下遺跡出土 | |
様式新段階(火焔型) 縄文時代中期 岩野原遺跡出土 | |
火炎土器の分布 新潟県に集中しているが、北関東、山形、福島方面にも伝播 | |
火炎土器が出土した遺跡は、新潟県内で150箇所に上り、その分布をみると信濃川の中流から上流 にかけての地域に集中している。 火炎土器文化の中核地帯であり、大規模で拠点的な集落が多数営まれた。 |
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土偶 ミス馬高のニックネームが付いている 縄文のビーナスほどではありません |
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石棒 馬高遺跡出土 縄文時代中期 | |
馬高遺跡から徒歩で丘を登ること30分弱で新潟県立歴史博物館があります。 アクセスはあまりよくありません。 見るべきものは殆どこれまでに実物を見てきたのであまりありませんでした、初歩から学ぶのには 良いかもしれません。 |
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県立歴史博物館からは幸い1時間に1本有るかないかの路線バスに乗れたので、これに乗って 長岡までもどってから、新幹線で越後湯沢へ行きほくほく線に乗り換えて十日市場まで。 ここに十日町市博物館が古代から中世までの複合遺跡のあとにできています。 十日町市の笹山遺跡より出土した深鉢型土器群が新潟県唯一の国宝に指定され、 国宝928点のほか、国指定重要民俗文化財「越後縮」の紡織用具2098点、 「十日町の積雪期用具」3868点を収蔵し、展示しております。 |
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この博物館には
国宝・新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器(57点)が展示されている。
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王冠型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
王冠型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
深鉢型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
深鉢型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
深鉢型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
浅鉢型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 | |
火焔型土器 笹山遺跡出土 縄文時代中期 同上 |
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縄文時代時期別遺跡数 十日町市内では旧石器時代遺跡21か所、縄文時代遺跡339,弥生時代11,中世118の遺跡が 発見されていて、縄文遺跡が圧倒している。 |
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縄文時代別遺跡数の推移 |
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時期別の遺跡数 | |
遺跡分布 信濃川をはさんで右岸左岸に点在する遺跡群 |
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十日町市内では、旧石器時代から中世までの遺跡が発見されている。 火焔土器を代表とする縄文時代の遺跡は、指南側流域に形成された上位から低位の河岸段丘上に 多く立地している。 |
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十日町市域には、信濃川と渋海川の二つの大きな河川が流れている。多くの支流を統合しながら それらの河川が形成した河岸段丘上で数多くの遺跡が発見されている。 平坦面の多い信濃川流域は348の遺跡が発見されているが、平坦面の少ない渋海川流域 は52遺跡と少ない。 縄文時代の遺跡数に限っても信濃川流域311に対し渋海川流域27遺跡と圧倒的な差である。 |
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石棒 左から石棒と中央と右側は彫刻石棒 | |
死者を埋葬した墓の上に石が置かれていた、配石墓。 | |
配石墓のレプリカ |
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三角濤(トウ・さんずい偏でなく土偏)形土製品 縄文時代中期 笹山遺跡出土 国宝 | |
土偶(左)と三角形土偶 笹山遺跡出土 縄文時代中期 いずれも国宝 |
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三脚石器 笹山遺跡出土 縄文時代中期・後期 | |
板状石器 縄文時代中期・後期 笹山遺跡出土 国宝 |
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左磨製石斧 右打製石斧 |
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垂飾 縄文時代中期・後期 笹山遺跡出土 国宝 |
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土製耳飾 | |
石皿・魔石 縄文時代中・後期 | |
石鏃(矢じり) 笹山遺跡出土 縄文時代中期 三泊四日の旅はここ十日町市博物館を最後に、越後湯沢駅近くの居酒屋で一杯飲んで 一路東京に戻り無事終了となりました。 長々とお付き合いいただきありがとうございました。 |