2023年3月15日―17日
JR東日本大人の休日俱楽部 会員誌2023年2月号の特集に 「東の飛鳥」徳川光圀も注目した古代ロマン 下野国に遊ぶ が掲載されていたそれに触発され何時もの歴史好き仲間の先輩と二泊三日の下野国への旅をしてきた。東京駅から新幹線で宇都宮へ そこからはレンタカーで恥j面の予定地下野薬師寺跡へそこには下野薬師寺歴史館があります。 | |
古代正式なお坊さんになるための資格試験を受ける場所を「戒壇」といった。この試験を「受戒」と言う。奈良時代この受戒を作ったのは唐の国からはるばる日本にやってきて唐招提寺を開山した鑑真和上さんだ。戒壇はまず奈良の東大寺に置かれその6年後の天平宝字7(761)年に福岡の筑紫観世音寺とともに、この下野薬師寺に置かれた。これを三戒壇と言われている。 | |
下野薬師寺の発掘調査で伽藍配置が明らかになっている。 | |
伽藍配置は時代とともに様々な配置となっている。左端の配置図は日本で最初の寺飛鳥寺(奈良県)の伽藍配置、その右が聖徳太子が建立したとされる四天王寺(大阪府)、次が川原寺(奈良県)、最右端が興福寺(奈良県) | |
下野薬師寺は古代官道として整備された東山道に位置していた。古代律令制度では、全国を8つの行政区分(五畿七道)に区分けしていた、下野国は「東山道」に入る。 | |
東山道は古代官道として整備され下野国と都を結ぶ重要な交通路であった。南西側上野国(群馬県)から足利駅家(うまや)を経て下野国分寺、下野薬師寺を通り北東黒川駅家から陸奥の国へと続いていた。 | |
下野薬師寺跡に設置された外郭施設の説明看板 | |
下野薬師寺の創建期の鬼瓦 大和国川原寺っと同系の文様であることから寺の創建が7世紀末頃であることがわかる。 | |
250メートル四方の史跡指定範囲の中に回廊跡創建時の塔跡や東基壇跡 西基壇跡に建てられた六角堂等がいられ、回廊の一部が復元されている。 | |
100メートル四方の回廊 発掘当時の写真を掲載した説明看板 | |
復元された回廊の一部(回廊の北西部分) | |
戒壇の伝承地に幕末頃に建立された六角形のお堂、火葬に西基壇跡がある。 | |
創建当時の塔から再建された塔の跡 回廊の東側外にある | |
塔跡と回廊の中間に幢竿跡(どうかんあと) | |
戒壇堂(六角堂)は、江戸時代中期に在りし日の戒壇堂を偲んで建てられたお堂。 | |
戒壇堂 | |
下野薬師寺跡のエリア内には下野薬師寺(平成29ねんより本堂、山門などの修理を行い足利幕府時代からの寺名「安国寺」から創建当時の下野薬師寺に改名)が現存します。 | |
現下野薬師寺 | |
こぶしが満開でした | |
龍興寺 略歴下野薬師寺の南方に立ち、同寺の別院とされている。寺伝では奈良時代の天平宝字5年(761年)、鑑真が唐の龍興寺の舎那殿壇の法を移し「生雲山龍興寺」として開基したという | |
龍興寺山門龍興寺は南都六宗、現在は真言宗智山派の寺院飛鳥時代白鳳八年(680)下野薬師寺の別院として開山し、奈良時代に聖武天皇の命を受けて三戒壇制定に尽力した鑑真和尚が天平宝字五年(761)、その別院に唐の揚州龍興寺の戒壇の法を移したことにより、名前が龍興寺となりました。 | |
道鏡事件で名高い道鏡の墓所道鏡事件とは奈良時代に道鏡(どうきょう)が天皇位を得ようとして阻止された事件。766年称徳(しょうとく)天皇の寵(ちょう)を得ていた道鏡は法王に任ぜられ,天皇に準じる高位に昇った。769年豊前国宇佐八幡宮(現大分県宇佐市の宇佐神宮)の八幡神が,道鏡を天皇にすれば天下が太平になるとの神託を称徳天皇に奏上(そうじょう)した。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(ほうきん)(和気広虫(わけのひろむし))を派遣せよと求められ,代わりにその弟和気清麻呂(きよまろ)を派遣。清麻呂が神託を請うと,〈道鏡は悖逆無道(はいぎゃくむどう)〉〈天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)を続(つ)げよ〉との道鏡不適格の託宣(たくせん)を得た。清麻呂はこれを天皇に奏上したため大隅国へ流されたが,天皇も道鏡を天皇の位につけるのを断念し,天皇の死後に道鏡は失脚した。 | |
失脚した道鏡はこの地下野国に流されこの地で最後を迎えた。一般医は道鏡は天皇位を得ようとした悪人というレッテルが張られているがこの地では庶民に善行を施した僧侶として人民から愛されたようで道鏡塚が作られた。 | |
本堂 右は寺務所?弘法大師の銅像があります | |
二日目は鬼怒川温泉から宇都宮市内にある栃木県立博物館を見学後昼食タイムこだわりの自家製麺。焼き豚。煮豚。一つ一つの素材を手仕事で丁寧に仕上げています。もちもちジューシーな弥惣吉餃子も見逃せない。 | |
ボリューム満点特に餃子は三つ食べたら十分でした | |
午後からはしもつけ風土記の丘資料館同じ敷地内の国分尼寺跡に咲く 淡墨桜 少し時期が早かった。 | |
奥の方が国分尼寺跡 | |
まもなく満開を迎えます | |
下野市立しもつけ風土記の丘資料館 | |
機織形埴輪が甲塚古墳から出土 | |
6世紀前半の機織機の存在が明らかになった。 | |
馬型埴輪 | |
人物埴輪 | |
人物埴輪 | |
下野国分寺跡 | |
国分寺跡は発掘後埋め戻されて広場になっている | |
しもつけ風土記の丘資料館から1.5キロのところに国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館があります。資料館には県内最大級の前方後円墳である摩利支天塚古墳、琵琶塚古墳を初め、思川右岸に造られた飯塚古墳群から出土した遺物をて持している。 | |
これは琵琶塚古墳6世紀前半に作られた栃木県最大級の前方後円墳、墳丘長124.8メートル 前方部2段後円部は3段に土が盛られている。 | |
摩利支天塚と琵琶塚は道路で分断されていた。 | |
古墳の樹木は伐採されて前方後円墳の形がよくわかる・ | |
後円部噴頂には祠が建っていた、のちの時代に作られたもの。 | |
墳丘には登っていけます。 | |
墳頂の祠から前方部を見渡す。 | |
古墳を見た後は縄文時代にさかのぼって寺野東遺跡へ向かう。 | |
寺野東遺跡は小山市東部の絹地区にあり、1990年から5年間工業団地造成に伴う発掘調査で旧石器から平安時代までのムラや墓地があったことが分かった。このうち縄文時代中期前半から後半(4600~4300年前)に、東側の台地に径約190メートルの範囲の大きなムラが営まれたことが分かった。その後も縄文時代を通して反映したところです。 | |
後期初頭(4000年前)になると、村の規模は小さくなり、やや低いところに営まれるようになる。このころに水場遺構が造られた。木の実のあく抜きを目的とした、水さらしの施設が見つかったことにより、後期には谷の水を積極的に利用し始めたことがわかる。 | |
水場遺構 | |
縄文前半~後半(3800~3000年前)になると、ムラは谷の東西に営まれる。東側には、関東地方で初めて確認された、巨大な環状盛土遺構が造られた。これは後期前半から晩期前半迄のとても長い間造り続けられたもの。 | |
環状盛土遺構の模型 上記写真とほぼ同じ方向から撮影 | |
小山から宿泊地東急ハーベストクラブ那須に向け途中にある古代那須国エリアに寄って行く。ここのエリアは江戸時代初期水戸黄門でおなじみの徳川光圀の命によって調査・保護された国指定史跡「侍塚古墳」を中心とする、古代那須の遺跡が残されている。この笠石神社には那須国造碑が安置された祠があります。 | |
これが那須国造碑のレプリカです。(大田原市風土記の丘湯津上資料館)石碑の頭に笠が載っているいることから笠石となずけられた。水戸光圀の命により発掘された国造の功績と人となりが記されている国内一級の遺物であると、神社の宮司さんが説明してくれました。 | |
笠石神社鳥居と脇に建つ日本考古学発祥の地の石碑日本考古学発祥の地の碑は東京の我が家近くにあるエドワードモースが発見した大森貝塚に立つ碑でも日本考古学発祥の地と記されているが、ここの宮司さんに言わせるとモースが貝塚を発見した明治初期をさかのぼる約二百数十年前に水戸光圀は遺跡の発掘を命じたこの地が先とのことでした。 | |
那須国造碑は勿論国宝に指定されています。永昌(えいしょう)元年(689)、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮から那須の国造(くにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)は評督(こおりのかみ)という評(後の郡)の長官の官職を賜り、その後、庚子(かのえね)の年(700)に亡くなったため後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが、碑を立てて故人を偲び祀ったということなどが記されています。 | |
「那須記」に記された古碑に深い関心を持った光圀は古碑の主を解明するために、碑の周囲の発掘踏査を行った。しかし、古碑の主の解明には至らなかった。そこで近くにあった大墳墓、上・下侍塚古墳の発掘調査を命じ。、これらが侍塚古墳群でかかつては10基ほどあったが戦後の開田等によって2基が消滅して現在は8基が残っている。 | |
下侍塚古墳 発掘によって出土した遺物については絵図をとらせ、遺物保護のため原位置に埋め戻し、墳丘についも修復し、松を植え保護をさせた。叉、碑についても碑堂を建て、周囲を買い上げ、管理人の僧(別当)も配置した。時1692年(元禄5年)の事であった。 | |
下侍塚古墳 後円部方向から撮影 | |
下侍塚古墳 説明看板 | |
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。) | |
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。) | |
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。) | |
上侍塚古墳 説明看板現在上侍塚古墳は「いにしえ栃木発見どき土器わく湧くプロジェクト」事業として侍塚古墳の調査を進めている。折しも、訪れた日は上侍塚古墳の発掘調査が最終日で運がよく墳丘の葺石を埋め戻す前に見ることができた。 | |
発掘調査にあたった担当の方に聞いたら、古墳の築造時期がさかのぼるかもしれない土器片が出てきたとの事でした。 | |
後円部に墳丘の葺石 | |
調査が終わると埋め戻されてしまう。 | |
上侍塚古墳 全貌 | |
前方部の葺石 | |
同上 | |
那須に宿泊した翌日は日光東照宮へ 観光ツアー平成の大修理が終わった東照宮を見てきました。このお堂は輪王寺の三仏堂 釈迦如来像 千手観音像 馬頭観音像が安置されている。 | |
東照宮 さすがに外国人観光客が大勢来ていた。 | |
五重塔 | |
表門 東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれています。 | |
神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる)【重文】神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩(うまや)です。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されています。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。 | |
鳥居越しに 陽明門を望む | |
陽明門日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。 | |
陽明門 庇の針に飾られた人形 | |
眠り猫(国宝)左甚五郎作とつたえられている。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで掘られたともいわれている。 | |
奥宮にある 徳川家康の墓所 | |
鳴き龍の天井画ある本地堂(薬師堂) | |
三大徳川将軍家光の霊廟 大猷院 仁天門 | |
大猷院 拝殿拝殿・相の間・本殿の中内部では絵師の狩野探幽が描いた唐獅子や、家光公が実際に着用した鎧などが飾られていました。狩野探幽は、日光東照宮の想像の象をデザインした人物としても有名で、国宝の陽明門をデザインしたのも狩野探幽です。この後、日光神橋の近くにある羊羹の老舗三ツ山羊羹店で水ようかんをお土産に買って帰途につきました。旅の終わりに宇都宮でレンタカーを返却して宇都宮名物の餃子と中華の居魚屋で恒例の一杯やってから新幹線に乗車して帰宅の途につきました。 |