上毛国& 福島郡山大安場古墳群 遺跡巡り 

    
                                                                                                                                      2024.1.23-25


 昨年3月の下野国遺跡巡り以来の大人の休日倶楽部フリーパスを使った遺跡巡りの旅をしてきました。

日程は初日東京駅から上越新幹線で高崎駅に行きそこでレンタカーを借り、群馬県内の古墳巡りの後伊香保温泉で宿泊翌日も群馬県内の遺跡を見学後、高崎駅でレンタカーを返却。

高崎駅から大宮まで上越新幹線で大宮駅まで戻って東北新幹線に乗り換え宇都宮へ、翌日は東北新幹線で福島県郡山へタクシーで大安場史跡公園へ。

史跡公園から郡山駅まで徒歩で戻る予定が突然の吹雪に襲われたため急遽一日に数便しかない路線バスにかろうじて間に合って郡山迄戻って安積国造神社に参拝後蕎麦屋 隆仙坊で体を温めて帰京。



太田天神山古墳


太田天神山古墳 (おおたてんじんやまこふん)は、 
群馬県 太田市 内ケ島町 にある 古墳 。

形状は 前方後円墳、国の 史跡 に指定されている(指定名称は「天神山古墳」)。

東日本では最大 、全国では第28位の規模の古墳で 、東日本では墳丘長が200メートルを超す

唯一の古墳として知られる


別称を「男体山古墳」とも
埋葬施設は未調査のため明らかとなっていないが、後円部墳頂の平坦面において竪穴式の

施設が想定されてい
。しかしすでに盗掘を受けているため、現在の墳頂部は盗掘壙により陥没し、

周辺には盗掘由来と見られる小砂礫が散在する状態である
。また後円部南側の裾には、

石棺部材と見られる石材の一部が転落した状態で残存する]。この石材は群馬産の緑色凝灰質

砂岩で、乳頭状突起を有する特徴から、組合式長持形石棺の部材の一部と見られている
本古墳で使用された組合式の長持形石棺は、畿内の大王墓や地方最有力首長層にしか

使用例のない珍しいものになる
。東日本における長持形石棺の使用例には、

他に
お富士山古墳伊勢崎市安堀町)出土棺のみが知られるが、天神山古墳出土棺は

そのお富士山古墳出土棺を上回る規模になる
。しかし両棺とも同一の製作技法であり、

いずれも当地に派遣された畿内工人の手になると考えられることから、その背景として

製作当時において上毛野の首長と畿内王権とが同盟関係にあったことが推測される
太田市中心部の標高40メートルほどの台地の東端部に築造された巨大前方後円墳である

後円部の裾を
県道2号線東国文化歴史街道)が、前方部外堀部分を東武小泉線が横断するものの、
墳丘・内堀の大部分は良好な状態で残されている
くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の古墳名は同神社に由来する
墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は約210メートを測るが

、これは東日本では最大規模になる
]。墳丘外表には葺石が認められる。

また墳丘周囲には2重の周濠が巡らされているほか、陪塚2基を付設する(うち1基は推定)。

周濠を含む全域は364メートル×288メートルにも及ぶ。埋葬施設はすでに盗掘を受けているが、

未調査のため、
長持形石棺の使用が知られるほかは不詳。
埋葬施設は未調査のため明らかとなっていないが、後円部墳頂の平坦面において

竪穴式の施設が想定されている
。しかしすでに盗掘を受けているため、

現在の墳頂部は盗掘壙により陥没し、周辺には盗掘由来と見られる小砂礫が散在する

状態である


また後円部南側の裾には、
石棺部材と見られる石材の一部が転落した状態で残存する

この石材は群馬産の緑色
凝灰質砂岩で、乳頭状突起を有する特徴から、

組合式
長持形石棺の部材の一部と見られている
天神山古墳の東北方には、陪塚と見られる円墳が残存する(A陪塚

規模は、直径36メートル・高さ3.2メートル。天神山古墳の主軸延長線上に概ね位置し、

出土した円筒埴輪も天神山古墳出土品と同種になる
]

この陪塚の築造の背景として、
大阪府羽曳野市墓山古墳と陪塚の向墓山古墳の形態が

指摘された
]

このA陪塚は『上毛古墳綜覧』では「九合村67号墳」として登載されている
女体山古墳



北東には隣接して帆立貝形古墳の女体山古墳が築造されているが、

天神山古墳と女体山古墳とは主軸方向が一致し、その間隔・スケールにも25晋尺が

使用されていることから、両古墳はほぼ同時の設計になると見られている。
  


標高40mの台地上に立地する。帆立貝形古墳としては、西都市男狭穂塚古墳(墳長175m)、

奈良県河合町(墳長129m)と並び全国3位、関東では最大の規模を誇る。

女体山古墳(にょたいさんこふん)は、群馬県太田市内ケ島町にある帆立貝形古墳

(または造り出し付き円墳)。国の史跡に指定されている。

古墳名称の「女体山」は、隣接する「男体山古墳」(太田天神山古墳の別名)に対するものである。

配置や主軸方向などから、当古墳と、隣接する太田天神山古墳とは密接な関係があると

考えられる。

両古墳とも晋尺(1尺 = 24センチ)の25尺を単位として設計されており、

一連の計画に基づく築造と思われるが、当古墳は太田天神山古墳にわずかに先行して

5世紀中葉に築造されたと考えられている。

綿貫観音山古墳(わたぬきかんのんやまこふん)は、高崎市綿貫町にある古墳。

形状は前方後円墳。綿貫古墳群を構成する古墳の1つ

。国の史跡に指定され(指定名称は「観音山古墳」)、出土品は国宝に指定されている。

6世紀後半(古墳時代後期)の築造と推定され、数多くの副葬品が出土したことで知られる。

綿貫観音山古墳は、高崎市の市街地の東方6キロメートル、井野川西岸の平野に立地し、

北面して築造されている。規模は、

  • 墳丘長97メートル
  • 後円部径61メートル・高さ9.6メートル
  • 前方部幅64メートル・高さ9.4メートル


を有し、二段築成で、二重の馬蹄形の周堀を持ち、また、上記のとおり、前方部の幅と後円部

の径、前方部の高さと後円部の高さはほぼ等しい数値を示しており、きわめて整然とした

形態を有している。

出土した副葬品や須恵器の特徴から6世紀後半以降の造営と見られている

墳丘上の各所には埴輪を配置しているが、葺石は全く認められない


後円部墳頂~前方部榛名山保面を望む。


後円部墳頂 
前方部墳頂より後円部を望む
後円部 写真左隅に石室

たまたま管理事務所に声を掛けたら管理員さんが石室の中を開錠して案内してくれました。



埋葬施設としては、後円部中段に両袖型横穴式石室がある。西南に向かって開口するように

設けられており、石室内はほぼ埋葬当時の状態を保っている。石室の規模は群馬県最大で、

全長12.65メートル、
玄室の長さ8.12メートル、幅(奥)3.95メートル、(前)3.16メートル、

羨道の長さ4.53メートル、幅(奥)2.40メートル、(前)1.34メートルである

壁石はブロック状に加工された
角閃安山岩が使用され、天井石には牛伏砂岩と呼ばれる

石が使われている。

重さは最大で22
トンあるが、古墳の周りに巨石はない鏑川流域の産地から運ばれたと思われる。

発掘当時、奥から2つ目の天井石と壁石が崩落しており、調査は難航したが、結果盗掘

を免れる要因となった。
石室入口  


入り口を入ると立って歩けるくらいの高さがあって室内はかなり広いです。


横穴式石室の開口部から前方部にかけて中段テラスに配列された形象埴輪は、

首長の首長権継承儀礼ではないかと考えられている。あぐらをかいて座している男子に

容器を差し出す女子、そのそばに三人の女子、
(ゆぎ)を背負う男子三体の集団が

中核集団になっている。さらに、付き従う皮袋をもつ女子、威儀を正した女子、盛装男子、


甲冑武人、農夫、を持つ人などが続いている。 この中核場面と離れた前方部に飾り馬が

並べられ、後円部頂には複数の家形埴輪や
の動物埴輪、器財埴輪が立てられている。

発掘された埋蔵物は近隣にある群馬県立歴史博物館に展示されたいます。

博物館内の見学は昨年訪れたので今回はパスしました。
この案内板は綿貫観音山古墳のものです。
綿貫観音山古墳の近隣には古墳群が存在します。

これは不動山古墳の説明看板です。


群馬県南部、井野川下流の右岸地域に築造された古墳である。


墳丘長94メートル、後円部直径54メートル、高さ10.1メートル

一帯では前方後円墳4基(綿貫観音山古墳・不動山古墳・普賢寺裏古墳・岩鼻二子山古墳(消滅))

および円墳群が分布し、綿貫古墳群を構成する。現在までに前方部は大きく削平を受け、

墳頂には不動尊が祀られる。

墳形は前方後円形で、前方部を西南西方向に向ける。

墳丘表面では葺石・埴輪が検出されている。墳丘北側くびれ部には造出が認められており、

埴輪列・土師器(和泉式高坏など)が検出されている

また墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされる

埋葬施設は明らかでないが、現在は墳頂に大型の凝灰岩製刳抜式舟形石棺の身部が

遺存する(蓋は不明)



築造時期は、
古墳時代中期の5世紀後半(または5世紀中-後半頃と推定される。

綿貫古墳群は普賢寺裏古墳→不動山古墳→岩鼻二子山古墳→綿貫観音山古墳の順の

築造と推定されており、一帯における5-6世紀代の有力豪族の存在を示唆する古墳の1つになる
浅間山古墳

浅間山古墳(せんげんやまこふん)は、高崎市倉賀野町にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。

群馬県内では太田天神山古墳(太田市)に次ぐ第2位、ひいては関東地方では太田天神山古墳、

舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳である。4世紀末から5世紀初頭頃の

築造と推定される

また、付近には大鶴巻古墳や大山古墳、佐野長山古墳(消滅)など、13基の前期古墳が

集中しており、倉賀野(佐野)古墳群を構成している。

高崎市の東南の平野部に位置する前方後円墳である。付近には古墳時代初期から後期にかけて

古墳群(倉賀野古墳群)が形成され、大鶴巻古墳(墳丘長123メートル、国の史跡)・小鶴巻古墳

(墳丘長87.5メートル)などの前方後円墳が存在するが、本古墳はそれらの中でも

最大規模を有する
浅間山古墳 全景
この日の宿は 和心の宿 大森

伊香保随一の眺望を誇る標高800mにある絶景露天風呂が人気の宿。

心和む宿をコンセプトに、親しみやすいおもてなし。

翌朝 炉日から朝焼けの景色 は絶景の露天風呂に夕方、翌朝2度入りました。。
朝食の食卓に置かれた宿のこだわり。
朝食は食べきれないほどのごちそうが並びました。
この日の予定は朝市榛名山神社へ参拝す予定でしたが生憎夜半からの雪が数センチ積もっていたので

交通の安全を考えて予定変更。

この日2番目訪問予定場所かみつけの里博物館がある保渡田古墳群へ向かいました。

本古墳群は、榛名山の南麓の保渡田・井出の地に分布しており、

二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っている。

群の西南部に最大規模の二子山古墳があり、その東北方に八幡塚古墳、

その西北西に薬師塚古墳がある。

築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、

二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されている。

出土品や遺跡についての情報は、隣接するかみつけの里博物館で公開・展示されている。


到着後博物館が開館する9時半前に薬師塚古墳を見学しました。

墳丘部が西光寺の堂宇や墓地のため、南側から東側にかけてかなり削り取られている。

墳丘長100メートルを超え、二重に周壕を巡らしていたと推定されている。葺石が葺かれ、

埴輪類が配置されていた。


には火山灰の堆積が見られるのに、内濠にはそれが見られないために、外濠が先に掘られ

、内濠が掘られる前に榛名山の噴火に遭遇したとみられている。

また、二子山・八幡塚の両古墳と比較して埴輪類の数が少なく、これも榛名山の噴火に

伴う地域への人的・経済的な打撃が大きかったとする推測もある。
埋葬施設は舟形石棺で、江戸時代に掘り出され、墳丘上に保存されている。


八幡塚古墳


墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートル。高さは削平されて分からない。

周濠は馬蹄形で二重に取り巻き、さらに外側を幅の狭い外周溝が巡る。内濠部のくびれ部と後円部後側に4基の中島が配置されている。墳丘には葺き石が葺かれ、円筒列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。

一緒に旅する同好の士です。
八幡塚古墳 全景 前方部より後方部墳頂を望む。
前方部より後円部を望む  奥は榛名の山々
保渡田八幡塚古墳からは鵜形埴輪が出土しており、首を高く上げ口に魚をくわえ、首に鈴のついた

首紐が付けられた鵜(う)の姿が表現されてい

鵜を用いて川漁を行う鵜飼は文献史料では古代中国の歴史書『隋書』や『古事記』『日本書紀』

において見られるが、保渡田八幡塚古墳出土の鵜形埴輪は古墳時代から儀礼・行事としての

鵜飼が行われていた可能性を示す資料として注目されてる
前方部前面の中堤上に円筒埴輪列で方形に区画された部分から人物類や、ウマ・ニワトリなどの

家畜、イノシシ・水鳥など狩猟鳥獣をモチーフとした形象埴輪が出土している。

これらの動物埴輪は、埴輪祭祀の一つの表現様式として注目されている。
二子山古墳

墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートル、墳丘部が三段築成で、

前方部幅71メートル、高さ7メートル。周濠は馬蹄形で二重に造られており、

内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島を4基配置している。

墳丘・中島・中低部とも川原石で葺石としている。
円筒埴輪列を巡らしている。

墳丘北側の中堤部分の一角から外濠西北隅の外側部分に人物埴輪や飾馬(
馬具を装着したウマ)・

イノシシイヌ・盾・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪を配置した区画が見つかっている。
八幡観音塚古墳(やわたかんのんづかこふん)

高崎市八幡町に所在する前方後円墳である。古墳は国の史跡、出土品は重要文化財に指定。

高崎市の西方、北側を東南流する烏川と南側を東流する碓氷川とに挟まれた東西に

長い帯状の台地上に所在する。

この古墳の墳丘は、前方部は4段、後円部は3段構成で、横穴式石室は第1段(基壇)の上に

乗る形となっている。

墳丘と石室は高麗尺を使って作られていたと考えられ、どちらの規模も35の倍数になっている。

横穴式石室は全長15.8メートルを測る巨石使用の大石室で、最も大きい石材は4.5×3.4メートル

以上、重さ約50トンにも達する。その壮麗さから「群馬の石舞台」とも呼ばれている
石室入口

1945年(昭和20年)3月、防空壕を掘っていた地元の人々によって石室が偶然発見され、

30種300点にのぼる副葬品が発掘された


1945年(昭和20年)3月、防空壕を掘っていた地元の人々によって石室が偶然発見され、

30種300点にのぼる副葬品が発掘された

これらの遺物は観音塚考古資料館に収蔵・展示されている。




七輿山古墳(ななこしやまこふん)


七輿山古墳(ななこしやまこふん)は、藤岡市上落合にある古墳。形状は前方後円墳白石古墳

を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。


七輿山古墳は6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳です。6世紀代の古墳としては

東日本最大級のもので、全長150メートル、前方部幅115メートル、後円部径85メートル、

高さは前方部・後円部ともに16メートルの大きさです。
出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪や人物・馬などの形象埴輪類や須恵器・土師器があります。特に

、円筒埴輪は直径40センチメートル・高さ110センチメートルで、7条の突帯(とったい)が

巡る大型品で、稀なものです。
  七輿山古墳全景 右手が後円部

七輿山古墳は、5世紀後半に築造された土師ニサンザイ古墳の相似形であり、名古屋市熱田区

断夫山古墳と規格が合致するため、倭王権から緑野屯倉に派遣された尾張氏の人間が

現地に葬られたとする説がある
平井地区1号墳(ひらいちくいちごうふん)は、群馬県藤岡市三ツ木にある古墳。形状は円墳

白石古墳群を構成する古墳の1つ。群馬県指定史跡に指定され

(指定名称は「平井地区1号古墳」)、出土品は国の
重要文化財に指定されている。
墳形は円形で、直径24メートル(または30メートル[・高さ3.5メートルを測る

墳丘は2段築成で、周囲には基壇を有する
。墳丘外表では葺石のほか円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)

形象埴輪(家形・靱形・大刀形・鞆形・帽子形埴輪)が検出されてい。また石室前・墳頂部の2ヶ所では

小石を敷いた祭祀遺構が認められており、石室前では
須恵器・土師器が置かれ、墳頂部では破砕

された

須恵器大甕が重ね置かれている
。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、北方向に開口する

石室内部からは多数の副葬品が検出されており、特に
装飾大刀の金銀装単鳳環頭大刀・

銀象嵌円頭大刀が注目される。築造時期は
古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される

(皇子塚古墳とほぼ同時期)
皇子塚古墳

平井地区1号古墳に隣接してある。

墳形は円形で、直径31メートル(または30メートル)・高さ6メートルを測る。墳丘は4段築成

墳丘表面では葺石のほか円筒埴輪・形象埴輪(人物形・馬形・盾形・靫形・大刀形・翳形・

鞆形埴輪など)が検出されている

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口する。玄室・前室からなる複室構造の

石室であり、石室内部からは装飾大刀の金銅装単龍環頭大刀柄頭のほか弓金具2・鉄鏃・

耳環・小玉3・馬具が検出されている。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定され

(平井地区1号墳とほぼ同時期)、7世紀前半までの追葬が認められる

古墳域は1992年(平成4年)に群馬県指定史跡に指定された

白石古墳群を最後に高崎を離れて、大宮まで戻って東北新幹線に乗換下野国宇都宮迄行き

スーパーホテルに宿泊。

夕食は餃子屋を3軒梯子して宇都宮の夜を満喫しました。

翌日は宇都宮から福島県郡山まで新幹線で向かい、郡山駅からタクシーに乗って大安場史跡公園へ

行きました。

大安場古墳群は、福島県の郡山市田村町にあり、中通りを南から北へ向けて貫流する

阿武隈川の東岸、安積盆地に面した標高約250メートル、平地からの比高差約15メートルの

丘陵上に立地する。

大安場古墳は、1基の前方後方墳と4基の円墳からなる古墳群です。平成3年に発見され、

以後、測量調査や6回の発掘調査が実施されました。


 1号墳、2号墳を含めた2.3haが平成12年9月に国史跡に指定されています。

 1号墳は、4世紀後半(今から約1,600年前)に造られた、全長が約83mの東北地方では

最大の前方後方墳です。また、2~5号墳は、5世紀後半(今から約1,500年前)に造られた円墳です。
後方部 墳頂を望む

国指定史跡の範囲にある1号墳と2号墳は、築造当時の姿に復元したものです。

1号墳では、その雄姿と眺望から、古墳に葬られた豪族の権力の大きさを体感することができます。

 
前方部~後方部を眺める。

大安場古墳群(おおやすばこふんぐん)は、郡山市田村町にある古墳時代前期後半頃の築造と

推定される
前方後方墳1基、円墳4基からなる古墳群。

1号墳は
東北地方最大の前方後方墳で、国の史跡に指定され、周辺は大安場史跡公園として

整備されている。
2号墳から1号墳を撮影

1号墳や頂上に立ち並んでいたと思われる壺などの出土品が、平成15年3月に

福島県の重要文化財に指定されています。
2号墳 説明看板


近くのムラに住んでいた一族のものと推定される円墳が隣接しているが、

一部は宅地開発で消失している部分もある。
2号墳は円墳です。
1号墳の前方部より後方部を撮影

この時点で横殴りの雪が降ってきてますが写真では見えないですね

後方部墳頂はかなり削平を受けており、表土のすぐ下で南北方向の主体部が確認された。

長さ10メートル、幅2メートルの粘土棺の床をもうけ、そこに長さ9.2メートルの長大な木棺

(割竹形木棺)を安置している。

棺内の北よりに朱粒がまかれている。

副葬品は棺内南半部に置かれており、大刀、剣、槍、鎌、板状鉄斧などが出土した。

築造時期は、出土遺物と築造方法などから、4世紀後半頃と推定される。

副葬品の埋蔵位置を示す。
腕輪形石製品(「石釧」)1点が出土している。
太刀と槍先,剣の埋蔵位置が示されています。


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