平城宮跡資料館
奈良文化財研究所によるこれまでの発掘調査・研究の成果をもとに、土器や瓦、木簡をはじめ、建物模型や航空写真、発掘のジオラマ模型などで平城宮を分かりやすく展示しています。
第一次大極殿
朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。

大極殿復原に際して大きなハードルだったのが、当時の設計図や参考になるような絵画などが残っていないことでした。そのため、発掘調査で判明している基壇や恭仁宮の大極殿(国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などから大極殿の大きさ、形を推定しました。わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建築も参考にされています。
正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城国の国分寺金堂になりました。当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていました
朱雀門
平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいました

五社神古墳(ごさしこふん)は、奈良県奈良市にある前方後円墳。佐紀盾列古墳群に属する。

宮内庁により「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」として第14代仲哀天皇皇后の神功皇后の陵に治定されている。

  • 築造時期:古墳時代前期後半(4世紀後半〜5世紀初頭)
  • 墳 形:前方後円墳(葺石あり)
  • 規 模:全長約275メートル・後円部径約195メートル、後円部高さ23メートル、前方部幅155メートル、前方部高さ27メートル
佐紀石塚山古墳(狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)第十三代成務天皇陵として宮内庁が管理)
奈良県奈良市山陵町字御陵前にある前方後円墳。
佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)の西に接する前方後円墳で、墳丘は南面している。全長218.5メートル、後円部の径132メートル、高さ19メートル、前方部は幅121メートル、高さ16のメートル規模である。墳丘は三段に築成され、葺石が多用されているために石塚山古墳の名がある。

佐紀陵山古墳など他古墳との位置関係や墳丘の形から古墳時代前期末頃に属するのではないかと考えられている
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)

宮内庁により「狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている。
殉死のかわりに初めて埴輪を御陵に立てたという説話が日本書紀に記されているのがこの古墳ではないかとされている。

すぐに西側に接して築かれている佐紀石塚山古墳のくびれ部に佐紀陵山古墳の後円部がくい込んだ配置になっている。このため佐紀石塚山古墳の周濠は極端に狭くなっており、佐紀陵山古墳の方が先に築かれたことが推定されている。
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)遥拝所

ヒシアゲ古墳は、奈良県奈良市佐紀町にある前方後円墳。

宮内庁により「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。

全長219m、後円部径124m、後円部高さ16.2m、前方部幅145m、前方部高さ13.6mの前方後円墳。 現在宮内庁に管理されていて、自由に立ち入りできない。
遥拝所

陵名は平城坂上陵(ならのさかのうえのみささぎ)。佐紀盾列古墳群に属する。 築造時期は5世紀中葉~後半と思われる。磐之媛命の墓とされている

前方部に二重濠があり、珍しい。

1993年に奈良県立橿原考古学研究所が行った調査では、後円部東側くびれ部相当の内堤の外法肩部分で円筒埴輪列が見つかった。

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社。

大鳥居
別名として石上振神宮石上坐布都御魂神社石上布都御魂神社石上布都大神社石上神社石上社布留社岩上大明神布留大明神などがある。
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。
楼門(重要文化財)文保2年(1318年)建立
拝殿

入母屋造、檜皮葺。白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄進したとの伝承があるが、実際の建立年代は鎌倉時代初期とみられる。
仏堂風の外観をもち、貫(柱を貫通する水平材)を多用するなど、大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。国宝に指定。
七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)
石上神宮に伝世した上古刀で、両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。金象嵌で記された銘文の中に「泰□四年」の年紀がある。これを西暦369年にあたる「泰和四年」と読む福山敏男説が有力で、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている
1874年(明治7年)に石上神宮大宮司となった菅政友は、水戸藩出身で「大日本史」編纂に参加した経歴のある歴史研究者でもあった。大宮司としてこの社宝をつぶさに観察する機会を得た菅は、刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、さらに剣の錆を落として、はじめてその銘文の解読を試みた。
西山塚古墳(にしやまづかこふん)

全長114メートル、前方部幅70メートル高さ8メートル、後円部径65メートル高さ13メートル。円筒埴輪が発掘されており、その形式から、この地域の古墳としては異例の5世紀後半の築造が推測される。

延喜式に記されている継体天皇妃手白香皇女の衾田墓は西殿塚古墳ではなく、この古墳だという説がある。 その証拠としては、埴輪が継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻市の新池遺跡で焼かれていることが挙げられる。

西殿塚古墳(にしとのつかこふん/にしとのづかこふん)

宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されている。

箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある。こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている
墳丘は全長が234メートル、後円部の直径135メートル、前方部の幅118メートル。三段築成で葺石が葺かれている。後円部は正円形、前方部の側面は緩やかに弧状をなし端部で開き、正面ではわずかに撥形をしている。
1988年(昭和63年)、宮内庁の報告で特殊器台・特殊壺の存在が明らかになった。1993年(平成5年)、口縁部直径は50センチメートルから70センチメントールある大型品で有黒斑・有段口縁を持つ器台型埴輪、最古の都月型円筒埴輪が大量に出土した。口縁部外面に鋸歯文の線刻を施しており、外面は横ハケ、縦ハケ、内面はナデ調整している。壺形埴輪もあった。墳頂部で使用されていた可能性が強い。
大和神社(おおやまとじんじゃ)
『日本書紀』によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢いだと畏れられた。そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年2月、倭迹迹日百襲姫命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年8月7日にも、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君らが同じ夢を見たため、同年11月に大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。
戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている

絵画土器
楼閣を描いたもので、この絵を参考に多層式の楼閣が遺跡に復元されている。
楼閣の屋根
絵画土器
 人物
ヒスイの大勾玉(新潟県糸魚川市周辺のものが原料)
左は勾玉が入れられていた褐鉄鉱(かつてっこう)容器が出土。
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)
井戸
弥生の井戸
石斧とその鞘
小銅鐸
唐子鍵遺跡発掘後は埋め戻されている。
復元された楼閣

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写楽の古代史跡探訪
藤原京大極殿跡
古代蓮と畝傍山 藤原京跡
畝傍山の奥は葛城山系
耳成山を背景に
様々な色の蓮の花
天の香久山を背景に
花芯はレンコンのような
天の香久山を背景に
畝傍山遠景
馬見古墳群
三吉石塚古墳
★所在地:北葛城郡広陵町三吉
★墳丘:帆立貝式、(全長45m、後円部径40m、後円部高さ6.5m、前方部長7m、前方部前端幅22.5m、前方部高さ3m)前方部を東に向ける。周濠、埴輪あり。後円部は2段築成。
★埋葬施設:調査はされて無いが調査前まで墳丘部の中心を縦断する道があったが石材等が見えなかったことより埋葬施設は粘土槨と思われるが、既に破壊されている可能性大。
★出土遺物:円筒埴輪、朝顔形埴輪の他にキヌガサ、家、甲冑などの形象埴輪も出土した。
★築造年代:5世紀後半 ★発掘調査:1987年 ★被葬者:不明
元々墳丘中心部を縦断する道がある等、破壊寸前の古墳であったが87年の調査で帆立貝式古墳と判明し保存処置が取られた。保存方法も遺構を盛土で保存した上で築造当初の姿に再現されている。(従って葺石は築造当時のものは中で保護され現状見えるものは再現した葺石である。埴輪も復元品)この古墳の場合この姿がベストな復元(整備)と思われる。このあたりでは多いが全国的には少ない帆立貝式の構造が良く理解できる。
前方部南東隅に他に例のない張り出し部があるが、これは墓道として作られたようである。

当古墳は新木山古墳の直ぐ西にあり新木山の陪冢の可能性もあるが築造時期が新木山古墳は5世紀前半と見られることより時期的に合わず今後に課題を残す。
新木山山古墳
奈良県営馬見丘陵公園

公園内には多くの古墳がある。
馬見古墳群(うまみこふんぐん)は奈良盆地西南部、奈良県北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵とその周辺に築かれ、北群、中郡、南群の3群からなる県下でも有数の古墳群。
乙女山古墳
前方部が短い帆立貝式古墳の典型としてよく知られている。
また、長さ約130mと帆立貝式としては国内最大の規模で墳丘には埴輪列、葺石が見られます。5世紀前半に築かれました。
佐味田狐塚古墳
5世紀前半に築かれた全長86メートルの帆立貝式古墳
この古墳は、巣山古墳の西北隅部にキビスを接して築造された南向きの帆立貝式前方後円墳である。直径66mの後円部に長さ20mの短い前方部が付設してあり、周囲に浅い空濠が巡っている。帆立貝式古墳としては、近くにある乙女山古墳に次いで馬見古墳群中第二位の規模を持っている。
巣山古墳外堤の北側に位置する古墳状高まりから、古墳時代中期初め(四世紀末)の円筒棺と呼ばれる土製の管が出土。
この円筒は棺として造られ、その作り方は埴輪と共通してます。
棺のあったところ

一本松古墳
四世紀後半に造られた全長130mの前方後円墳

後円部の南東側隣接地で発掘調査が行われ,濠の一部と堤が確認された。
倉塚古墳
全長180mの前方後円墳 五世紀前半
馬見丘陵公園内は広大です。
ナガレ山古墳 (国指定遺跡)
この古墳は、奈良盆地の西を限る馬見丘陵の東支丘上に位置し、著名な馬見古墳群の中央部に所在する特別史跡巣山古墳、史跡乙女山古墳と近接している。
 
本古墳は、南向きの2段築成の前方後円墳で、全長103メートル、後円部径64メートル、前方部幅70メートルを測る比較的大形の古墳であり、墳丘の周辺には築造時に削平し平坦に造った平場が残されており、墳丘と墓域を考える手掛りとなっている。
昭和50年に墳丘の土取り工事が起こり、奈良県教育委員会が調査を実施した結果、墳丘裾部に埴輪をめぐらすこと及びその良好な遺存状況が注目された。
墳頂部からは奈良盆地が一望できる。
埴輪例は、布掘りの掘方の内に10センチメートル間隔で円筒埴輪を立て並べ、10本ないし20本ごとに形象埴輪と推定される大形の埴輪を配置したものであることが判明した。
埋葬施設は調査されていないものの墳丘の形態や埴輪の特徴からみて、5世紀前半ごろの築造と考えられ、馬見古墳群の形成過程を理解する上で欠くことのできない重要性を持つものである。
馬見公園館内にある古墳(帆立貝式古墳)の模型
足を延ばして二上山麓にある當麻寺
當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」


開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。
本堂(国宝)

金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。
1957年から1960年にかけて実施された解体修理時、棟木に永暦2年(1161年)の墨書が発見され、平安時代末期の建築であることがわかった。
金堂(重要文化財)

鎌倉時代の再建。入母屋造、本瓦葺。桁行5間、梁間4間。組物は二手先、中備(なかぞなえ)を間斗束(けんとづか)とする。屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。内部は土間で、中心の桁行3間、梁間2間を内陣とする。内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。
梵鐘

国宝。無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。
東塔を本堂から望む

  • 東塔(国宝)
三重塔で、総高(相輪含む)は24.4メートル。細部の様式等から、奈良時代末期の建築と推定される。初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする。
西塔

  • 西塔(国宝)
三重塔で、総高(相輪含む)は東塔よりやや高い25.2メートル。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される。西塔は、高さ以外にも東塔とは異なる点が多い。
石灯籠
近つ飛鳥博物館
 この博物館は一須賀古墳群のあるところに建てられてます。
博物館内の古墳の模型 
最大の古墳は仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)
帰り道に聖徳太子の墓がある叡福寺に立ち寄りました。
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があることで知られている。山号は磯長(しなが)山、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は聖武天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう。
聖徳太子のお墓
叡福寺本堂
御廟
宮内庁が管理してます。
聖徳太子御廟
 佐紀・大和、馬見古墳群 平城京・藤原京

2015年8月14,15日