大化の改新(645年)に創建された日本最古に属する寺院。 金閣浮御堂 当山出生の安倍仲麻呂公や安倍晴明公など安倍一族をお祭りするため、昭和六十年に、総金色仕上げの金閣浮御堂が完成堂内には仲麻呂公像、晴明公像、をはじめご本尊に開運弁才天、厄除け守護の九曜星の神々。方位災難除けの十二天御尊軸が安置されています |
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華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く、御本尊は日本最大(7m)の文殊菩薩で快慶作の国宝である。「三人寄れば文殊の智恵」の格言は当山の文殊さまから生まれた。 本堂 江戸時代 市指定重要文化財 寛文5年(1665)に再建された元安倍寺満願寺の本堂で現在の当山の本堂です。 |
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室町時代 重要文化財 流造屋根柿葺き、美しい曲線を持つ社殿で、当山の鎮守です。白山菊理姫を主神として祭り、特に縁結びの神として信仰の厚い社です。 |
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天文観測の地 石碑 展望台の場所は、晴明公が天文観測を行い、吉凶を占った地として古来より伝承されています。 |
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大和三山畝傍山がよく見えてます。残念ながら二上山、葛城山は霞んで見えませんでした。 | |
安倍晴明堂 ここは、日本における占いの開祖で有名な、当山出生の安倍晴明天文観測の地です。 晴明堂では、魔除け方位除けのご利益を頂けます。 |
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安倍晴明堂内 占いに使用する漁区 | |
ウオーナー博士報恩記念塔 | |
ウオーナー博士は東洋芸術史家で太平洋戦争中の日本本土爆撃で京都、奈良を爆撃対象から外すことをアメリカ政府、軍部に対して粘り強く説得し文化財の保護を訴えた。 |
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安倍文殊院東古墳 | |
文殊院境内の東側・国重文建物・白山神社の手前に位置し,特別史跡・文殊院西古墳の東100mにあたる。 古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ,信仰の対象とされてきた。 丘陵南斜面に石室が露出しており, 石室は,全長10.3m,玄室長4.8m,幅2.2m・高さ2.4mを測る。 比較的表面の凸凹した巨石を積んでいる。 |
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文殊院西古墳 飛鳥時代 国指定特別史跡 この古墳は古来より安倍寺の創建者である安倍倉梯麻呂の墓であると伝えられています。 |
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中は見られませんでした。 | |
安倍山丘陵から西北に派生する尾根を利用して築造されている。墳形は不明であるが、規模は30m前後であったと考えられ]埋葬施設は切石積みの両袖式横穴式石室で、石室は全長12.5m、玄室長5.1m・高さ2.8m・幅2.9mを測る。玄室には方形に切りそろえた花崗岩が用いられ、それを上石の目地が下石の中央にくるように横積みされている。奥壁は5段積みで4石と3石の組み合わせ、側壁は5段で7石と6石の組み合わせになるように積まれ、石の配置が計算されている。興味深いのは右側壁に2カ所、左側壁に1カ所、石の目地を模擬線によって表現している部分があり、非常に趣向を凝らしたものになっている。 |
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玄室には弘法大師お手作りと伝わる願掛け不動の石仏が祭られています。 柵の隙間から石仏をパチリ |
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土舞台 「日本書紀」推古20年(西暦612年)に百済の人、味摩之(みまし)が呉で「伎楽舞(くれのうたまい)」を学び、これを聖徳太子がご覧になって、この地で少年を集めて習わしめたという。土舞台は、初の国立演劇研究所がつくられた所であると伝えられている。 |
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丘陵を平らにならされています | |
仏寺の供養音楽の発祥地 | |
保田與重郎氏(桜井市出身の評論家9の筆による土舞台の碑が建っている。 | |
艸墓古墳(からとこふん) 「くさはか」とも云われ境内の東端山麓にあります。 |
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ここにたどり着くには苦労しました、住宅の脇道(幅50センチくらい)を行きます。 | |
一辺約27.5メートルの方墳で、南東側に横穴式石室が開口している。石室は石材1石を並列して構成する事を基本としており、大型の石材を使用していることが特徴である。 | |
玄室中央部には、竜山石製の刳抜式の家形石棺が一基安置されている。 | |
住宅の庭のようです。 | |
ここまで住宅が迫ってます。 | |
メスリ山古墳 古墳全体を撮影する野は無理でした。 古墳時代前期初頭の前方後円墳 この古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳(外山(とび)茶臼山古墳ともいう)らと共に鳥見山古墳群に属する。特徴的なのは、埋葬施設の副石室が遺品庫の様相を呈していることである。箸墓古墳の方が、年代的に先行する。別称は鉢巻山古墳、東出塚古墳などと呼称される。 規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、本古墳は絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる |
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メスリ山古墳を阿トン南下して 聖林寺へ |
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真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。 | |
立派なお寺です。 | |
三輪山を遠望できる山の中腹にあります。 |
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木心乾漆十一面観音立像は明治時代に来日した哲学者、美術研究家のアーネスト・フェノロサが激賞したことで知られるようになった。和辻哲郎も『古寺巡礼』(大正8年・1919年刊)でこの像を天平彫刻の最高傑作とほめたたえている。 | |
上宮庭園遺跡 新興住宅地の真ん中にあり見つけるのに苦労しました。 |
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聖徳太子が幼少・青年期を過ごしたとされる上宮(かみつみや、うえのみや)の名称は、父の用明天皇の宮の上方に営まれたことに由来すると言われている。 | |
延喜式神名帳』に掲載されている大和国城上郡等彌神社に比定されている。明治時代までは能登宮と呼ばれていた。本社にあたる上ッ尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。 | |
紅葉が進んできてました。 | |
創建年月は不詳であるが、社伝によると当社は古来より鳥見山に鎮座していたとされる。鳥見山は初代天皇とされる神武天皇が皇祖神を祀った場所と伝えられる。 | |
桜井を昼前に発って奈良市内に向かいました。 目的は奈良国立博物館で正倉院展が開かれていると聞いて出かけました。 久しぶりに春日大社の鹿に御対面。 |
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奈良公園は紅葉が真っ盛り。 | |
春日大社に参拝 | |
ここの灯篭は圧巻 | |
絵になります |
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中学校の修学旅行でもこのアングルで撮った写真がアルバムの残ってます。 |
2014年11月5,6,7日
橿原市(かしはらし)は、奈良県中部の市。総人口約125,000人と、奈良市に次ぐ県下第二の都市である。市名は神武天皇が磐余(いわれ)の地において磯城の首長の兄磯城(えしき)を破り、饒速日命も天津瑞を献じて仕えることとなり、神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に畝傍山東南「橿原の宮」に即位し建国したことに由来する。
近鉄畝傍御陵前駅の観光案内 | |
畝傍山を背にして畝傍御陵前駅 近鉄橿原神宮前はお隣の駅 |
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畝傍御陵前駅から徒歩5分位で橿原考古学研究所へ 奈良県立橿原考古学研究所(ならけんりつかしはらこうこがくけんきゅうしょ)は、奈良県橿原市畝傍町に設置された県立の埋蔵文化財調査研究機関。奈良県教育委員会に属する機関である。橿考研(かしこうけん)と略されることもある。古代史の宝庫、奈良県内の考古発掘を手がけ、高松塚古墳や藤ノ木古墳の発掘などで全国に名を知られる。附属博物館を併設する。 |
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畝傍山(うねびやま)は、奈良盆地南部に位置する山である。 天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には他の2山とともに国の名勝に指定された。標高は198.8メートルと三山の中では最も高い |
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橿原考古学研究所附属博物館は1940年(昭和15年)に原田積善会により設立された大和国史館が前身。 博物館前庭に置かれた修羅(大石を運搬する運搬具)に乗せられた大石(石棺) |
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博物館の展示品 古墳内から出土した装飾沓 |
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高さ2メートルにも達する円筒埴輪 | |
神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)。 神武天皇陵 県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。考古学名は四条ミサンザイ古墳(山本ミサンザイ古墳、神武田古墳)。 |
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橿原神宮 記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。 |
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外拝殿 | |
南神門 | |
特別史跡 本薬師寺跡 本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院[ |
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後の持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、両寺を区別するために本薬師寺と呼ばれる。 11世紀初頭まで存続していたことが認められている。現在は、橿原市城殿町の医王院(白鳳山醫王院)の境内に、伽藍遺構のうち金堂の礎石が一部残る。また東塔や西塔の心礎が周囲の水田に残存している。 |
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藤原京跡 藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市にあった日本史上初期の都城である。 また、日本史上最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。また、宮の主要建築物は礎石建築で、はじめて瓦を葺いたと考えられている。 |
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690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8年)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(慶雲元年)と言われ、着工時期は676年(天武5年)に始められていた。このことは藤原宮の発掘調査からも明らかになっている | |
藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には、一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地では、まず全域に格子状の街路を建設し、そののちに、宮城の位置と範囲を決定して、その分の街路を廃止したと考えられる。 | |
藤原京朱雀大路跡 |
2泊3日の最終日は桜井市の南側を半日と短い時間で駆け足で回ってきました。次回はゆっくりと廻り
たいものです。
桜井市(さくらいし)は、奈良県中部、中和地域に位置する市。
縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残っている。そのことからヤマト王権の中心的な地域であったと考えられ、その前期は三輪王権とも言われるが、今日の三輪地域を指していると見られる。
近鉄・JR 桜井駅前 |
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日本最古の神社といわれる三輪の大神神社・三輪惠比須神社、初瀬の長谷寺、多武峰の談山神社、等弥神社などの由緒ある社寺も数多く見られる。宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区である。また、土舞台(現桜井公園)は日本芸能発祥の地と言われ、“万葉のあけぼのの地”などと呼称されることもある。 相撲発祥の地、仏教伝来の地、など駅前のモニュメントに |
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三輪山 48峰といわれる峰々から成り、笠を伏せたような山容が美しい。 古代からもっとも聖なる山とされている。 三輪山は春日山系では珍しく斑糲岩で形成され、山中には巨大な岩が数多露出している。これらの岩石群は、山頂付近の奥津磐座、中腹の中津磐座、山麓付近の辺津磐座 というように呼ばれ、それぞれの磐座には大物主神、大巳貴神、少彦名神が鎮まると言われている。 桜井市にはまだまだ農地が多く残ってます。 |
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大神神社(三輪明神)の大鳥居 | |
三輪はそうめんの町でもあります | |
三輪山の山麓には多くの神様が祀ってあります | |
三輪明神 二の鳥居 | |
大神神社 拝殿 本殿はなく三輪山自体が神様 |
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御祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が「日本書紀」などに記され 蛇神は大神の化身として信仰されている。 |
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この神杉の洞から白い巳さんが出入りすることから「巳の神杉」の名がつけられた。 | |
磐座信仰 かつては岩を信仰の対象としていた | |
遠く畝傍山 右手は耳成山 | |
大和三山 一番左手香久山 | |
わが国最古の神社 大神神社 | |
御神体 | |
久延毘古命(知恵の大神) |
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二上山 二上山(にじょうざん)は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる山。かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。 金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある双耳峰である |
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神体山 登拝口 入山制限あります |
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この日は時間がなくここでストップ |
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活日神社 酒つくりの神様 |
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活日神社 祠 | |
桜井市に2件残る造り酒屋今西酒造 本店三輪銘酒「三諸杉(みむろすぎ)・鬼ごのみ」醸造元。 1660年創業の三輪に残る唯一の酒蔵。本屋は築120年の歴史ある建物。文楽「妹背山婦女庭訓」の舞台にもなった酒蔵です。 |
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かって海柘榴市が置かれていた。 そこにはうっそうと茂った椿の林があった。 古代人は、海柘榴の樹を霊木として尊んでいた。 そのため、その下で商取り引きをすれば、 ごまかされることはないと考えられていた。 |
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海柘榴市には河港があった。初瀬谷から奈良盆地に流れ込む初瀬川(大和川)は、三輪山の山麓沿いを流れる。 初瀬川は磯城郡川西町佐保川と合流している。 海柘榴市の河港では、大和川水運を利用する河舟が発着した。推古16年(608)8月、隋使裴世清らの一行は 海柘榴市の衢(ちまた)で歓迎を受け、飛鳥の小墾田宮に至った。 |
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古い民家が残っています |
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ここ海柘榴市は仏教伝来の地であります | |
桜井市の三輪山の南麓に流れる初瀬川の畔に、「仏教伝来の地」の碑が立つ。 古代、この辺りには、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最初の大きな市があったという。 山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸の交通の要衝であり、摂津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する、舟運の終着地でもあった。ゆえに、多くの物資が集まり、交易の中心として栄えた。 |
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初瀬川 ここに港がありました | |
難波津から大和川を遡上し初瀬川に入りここ海柘榴市で荷を下ろしました 『日本書紀』によると、欽明天皇13(552)年(※)、百済(くだら)の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされる。 |