2015年2月
神戸摂津岡本からJRで大阪駅 環状線で天王寺まで行き 近鉄南大阪線で飛鳥駅に到着 |
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駅前にて電動自転車を借りて 飛鳥めぐりスタート 駅前を出て近鉄線路を渡り坂道を登って行ったところに岩屋山古墳 7世紀代に築造された終末期の方墳で横穴式石室が公開されている。 |
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1968年に国の史跡に指定 横穴式石室が開口していたことから、古くから、その存在が広く知られた古墳である。一辺45メートル前後の方墳と考えられるが、八角墳と見る説もある。 |
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石室の用材にすべて花崗岩を使用した両袖式の横穴式石室で、内面には精巧な切石加工がほどこされている。玄室の壁面は2段積みで奥壁は上下各1枚、側壁は上段2枚、下段3枚の切石からなり、各壁とも上段は内側へ傾いた構造である。天井石は大きな一枚岩からなる | |
羨道の側壁は奥半分は1段であるが、前半は2段積みとなっている。玄室の長さ4.9メートル、幅2.7メートル、高さ3メートル、羨道の長さ12メートル、幅1.9メートルを測る。 発掘調査によると石室内は既に乱掘されており、しかも中世ごろとみられる墓が玄室中央に掘られており、埋葬当時の遺物は発見できなかっ |
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岩屋山古墳から更に坂道を登っていくと牽牛子塚古墳がある。 現在保存改修工事で墳丘はシートで覆われていた。 |
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大正12年国の史跡に指定された。指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はあさがおの別称である。「御前塚」と呼称されることもある | |
平成22年にかけて発掘調査によって八角墳であることが判明し飛鳥時代の女帝で天智天皇と天武天皇の母とされる斉明天皇(皇極天皇)の陵墓である可能性が高まった。 7世紀半ば大化2年薄葬礼が出され古墳自体は天皇陵とは思えない規模である 辺長約22m(石敷・砂利敷部分を含むと32m) |
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発掘調査がおこなわれていないため、出土品などは確認されていないが、築造時期は6世紀後半の早い時期と考えられている。 | |
真弓鑵子塚古墳は、明日香村大字真弓に所在する6世紀後半頃の古墳である。標高210mの貝吹山から南に伸びる尾根の端の瘤状の地形を利用して作られている。さらに、周囲の棚田に囲われるような位置にあるので、一目で古墳とわかる。 | |
真弓鑵子塚古墳からキトラ古墳に向かう途中国営飛鳥歴史公園内の道を行くと竪穴式住居の復元建物が現れた |
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キトラ古墳は保存改修工事中で 見学不能 |
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引き返して高松塚古墳へ 藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。 |
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古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。 被葬者については諸説あり特定されていない。 |
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高松塚古墳から飛鳥の風景 | |
天武・持統陵 墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。 |
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646年(大化2年)に薄葬令が出されたが、古墳造営のすべての否定ではなかった。一部の支配者層だけは、古墳の造営を続け、下級官人及び庶民は古墳造営が禁止されたのが実情である。言い換えると、一部厚葬、大多数薄葬であった。本古墳をはじめ、中尾山古墳、高松塚古墳などは薄葬令以降の古墳である。 | |
奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。 | |
ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。 | |
橘寺(たちばなでら)天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。 | |
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。 史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。 |
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当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。 | |
川原寺(かわらでら)は、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に所在した仏教寺院。金堂跡に弘福寺(ぐふくじ)が建てられている。 飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であったが、中世以降衰微した。川原寺跡は国の史跡に指定されており、現在はかつての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ真言宗豊山派の寺院・弘福寺が建つ。 |
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石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。 元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。 |
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墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていた。墳丘の周りに幅5.9-8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられている。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルである。 封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。 |
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埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。 | |
花崗岩で作られた石組みである。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。 | |
石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。 | |
中学校の修学旅行で訪れた時の記憶は玄室の中に入った覚えがない。 その後10年ほど前に来たときには周辺整備中で近くには近寄れなかった。 |
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板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。 | |
板蓋宮全景 |
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飛鳥寺 蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。 |
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飛鳥寺 全景 | |
飛鳥寺 奥の丘は甘樫の丘 | |
飛鳥坐神社 | |
創建の由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。 | |
飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は、奈良県明日香村にある古代の漏刻跡とされる遺跡。 | |
『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。また、この地は位置的に若い頃の天智天皇(中大兄皇子)が打毬の際に中臣鎌足と出会った(→乙巳の変)とされる「飛鳥寺西の槻樹」の一郭であったとする説もある。 発掘された遺構は楼状建物跡とそれに付随する水利用の施設、4棟以上はあったと推測される掘立柱建物跡及び掘立柱塀跡などからなる |
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豊浦寺後 603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。 |
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豊浦寺後には現在浄土真宗向原寺 | |
見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある前方後円墳。 後円部墳頂は宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)として陵墓参考地に治定されているほか、古墳全体は国の史跡に指定されている。 6世紀後半に築造されたと推定されており、欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説もある。 |
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古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートルにおよぶ。これは奈良県下では最大、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。 | |
前方部より東に後円部を望む | |
石室は公開されていない(宮内庁陵墓参考t地)が調査の結果、 横穴式石室の全長は28.4メートルで、全国第1位の規模である。羨道は一枚の長さ4.8メートルの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1メートル、幅1メートル以上、高さ1.5メートルほど。玄室の長さ8.3メートル、最大幅4.1メートル、高さ4.5メートルで、二つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれている。 |
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段築がはっきりと残っている |