吉備・出雲・・伯耆・大和の遺蹟をを巡る旅

2017.4.4-8

鳥取からスーパー特急白兎で大阪へ向かう途中


三徳山三佛寺へ寄る

三仏寺(さんぶつじ)は、鳥取県東伯郡三朝町にある天台宗の仏教寺院。山号を三徳山(みとくさん)と称する

鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院である。古くは三徳山全体を境内としていた。「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されている。

開山は慶雲3年(706年)に役行者が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置されたとされる。
庭園は改修工事中でした。
草創の時期や事情についてははっきりわかっていない。近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角(役行者)が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされている。役小角は伝説的要素の多い人物であり、この伝承を文字通り信じることはできないが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多い)は、同じ鳥取県所在の大山(だいせん)や船上山と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像される。
本堂

これより先投入堂へは残念でしたが、昨年の鳥取地震で山道が崩れ現在は通行止めでした。
投入堂を遥拝所から望む
ついでに因幡の白兎で名高い白兎神社へ
参道入り口
参道に飾られた兎
本堂
社殿
白兎神社の後、鳥取砂丘へ
観光用ラクダ  縫ぐるみではありません
大阪駅からJR環状線で鶴橋を経由、近鉄特急で大和八木へ行き
各停に乗換桜井市へ


宿に着いてから早速山の辺の道の桜井側スタート地点
海柘榴市へ

大和川水系初瀬川河畔には仏経伝来之地碑が建っています。
満開の桜並木の向うは雨に煙る三輪山
翌日はJRで柳本まで行って徒歩で山辺の道を三輪まで戻ってきました。


大和山辺の道のページは2015年のモノを見てください。
前日宿泊の倉敷駅前ステーションホテルを7時半に出発

鳥取県西部にある出雲国最大の弥生遺跡である
妻木晩田遺跡
島根県安来市から、この妻木晩田遺跡まで弥生後期に栄えた古代出雲の中心地であったと考えられる。

1995年から1998年にかけて、京阪グループ主導によるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート「大山スイス村」開発計画に伴い、大山町と淀江町の教育委員会により発掘調査が行われた際に発見された。
集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されている。

右側の墳丘模型が四隅突出型墳丘墓
標高90-120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよぶ。

この調査までに17.2ヘクタールが調査され、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されている。

一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれている。
いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落である
丘陵地に竪穴式住居や掘立柱建物が復元されている。
妻木山12号墳

妻木新山地区にふぃろがる古墳群中最大の円墳
古墳時代中期の築造と考えられる。
周囲を約4メートルの溝で区画し、内部は土を平たく積み上げて墳丘を作っている。
墳丘の中央部から4つの墓穴(埋葬施設)が見つかっているが、埋葬物はなかった。
仙谷地区
2世紀代、洞ノ原地区東側丘陵の次に造られ始めた墳丘墓群。
2基の四隅突出型墳丘墓を含む9基が見つかっている。

このうち、仙谷3号墓では、箱形の木棺をおさめた22基の墓穴が確認された。
妻木晩田遺跡で最大の首長墓が見つかった仙谷地区

墳丘墓が3基並んでいた。

ここに立つと弓ヶ浜や日本海の絶景が広がっていた。
妻木晩田遺跡南側の風景
手前の平坦地は妻木山地区
妻木新山地区に広がる古墳群中最大の直径18メートルの円墳
 
古墳時代中期の築造で副葬品は発見されなかった。
墳高2.4メートル、周溝幅4メートル
4基の墓穴が発見された。
竪穴式住居の調査掘り下げ作業の説明
竪穴式住居の遺構
妻木山地区の蘇った弥生のムラ(2世紀後半)
卑弥呼が王となった時期と重なる頃?
遺構展示館内には2世紀に造られた3棟の竪穴住居跡が、発掘当時のままの状態で保存されている。
白いラベルのところから青銅鏡が出土
竪穴住居の外側の下方は土で覆われていました、断熱効果があるのでしょうか?
住居内の床面は1メートルほど外部の地盤より掘り下げられてます。
中央部に炉を復元していました。
妻木晩田遺跡の見学を終えて次に向かったのは足立美術館です。

島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館。運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。
地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものである。質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっている。
大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。
庭園はほとんどガラス越しにしか見れません。
一部建物外で撮影ができました。
さすがに立派な庭園でした。

展示の美術品は撮影が許されていません。
この点海外の美術館とは違いますね。
美術館の後にいよいよ出雲大社へ


千家国造館

出雲大社神楽殿の西にある大きなしめ縄が飾られている門の中にある〝千家国造館〟。出雲大社宮司・出雲国造を務める千家国造(せんけこくそう)のお住まいです。

千家は天照大御神の第二子天穂日命(あめのほひのみこと)を祖とする氏族で、現在第八十四代千家尊裕国造で、その長男である千家国麿(せんげ くにまろ)氏が平成26(2014)年10月5日に高円宮典子女王と結婚されたことは有名な話です。
神楽殿
拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行われている。
出雲大社末社  19柱

御祭神  八百満神

旧暦十月に全国の神々が大国主大神の許にお集まりになられ、人々の幸福、生成発展のために神議なさる神在祭が斎行される。
十九社はその際の神々のお宿となる。
十九社
拝殿
本殿
平成12年(2000年)に出雲大社境内遺跡から出土した本殿の巨大柱

古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりもしたが、結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いとされている。
16丈説に基づいて復元された本殿の模型
日御碕大神宮


島根県出雲市の日御碕に鎮座する神社。式内社で旧社格は国幣小社である。通称、みさきさん。出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として崇敬を集める。

下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。出雲國神仏霊場20番。

「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。

下の本社拝殿
下の本社


上の本社より撮影
鳥居から下の本社
日御碕灯台
クロマツが生い茂っている
ウミネコがやってきます
日御碕の岩石は流紋岩で柱状節理で柱上に割れます
柱状節理
経島(ふみしま)にウミネコが12月頃に渡ってきて、4から5月にこの島でヒナを返して、7月頃北方の海に帰っていく
経島
西谷古墳群

出雲市街南東部の標高40メートル程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に確認され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。
四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。


4号墓
方形部は東西32メートル×南北26メートル。この墳墓群の中で最初に確認された墳墓で、1953年の造成工事の際に墳墓であることが確認された。この墳墓にも斜面に葺き石が施されている。地元産の壺などの大量の土器、吉備産の特殊土器が発掘された。2世紀末に築造されたと推定される。

四隅突出部
3号墓
方形部は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル、突出部の付け根の幅7~8メートル、長さ6~7メートルの幅広大形で、中期後葉にはささやかな突出部であったが、後期後葉になると大きく幅広い突出部に発達している。この突出部上面が墳頂への墓道と考えられている。
斜面は貼石で覆われ、突出部から墳頂にかけての稜線部分は石を敷き詰めた道のようになっており、墳丘頂上には、八つの埋葬施設があり、首長とその家族のためのいくつかの墓壙が掘られていた。そのうちの最大の墓壙の上には4つの柱穴が検出されており、何らかの施設があったものと考えられている。その墓壙から他地域からの搬入されたものも多数含まれている。
上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。第1主体には深さ1メートルで二重の構造の土壙が掘られ、木棺の外側に木槨をもつものである。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものが多い
2号墓
方形部南北35メートル×東西24メートルの長方形四隅突出型墳丘墓。斜面に葺き石が施されていることが確認された。ガラス腕輪が発見されている。
2号墓は石室が公開されている。
石室内は復元されていて王が眠っている様子が見られる。
ガラスの腕輪が朱で覆われた棺内に置かれてます。
突然浮き上がる王の遺体
王墓の説明
蘇った四隅突出型墳丘墓
墳丘の墳頂部から仏経山を望む

仏経山の山頂には磐座がある。
出雲弥生の森博物館

四隅突出型墳丘墓の復元模型
出土した管玉
鉄剣
碧玉管玉
ゴホウラ貝製腕輪
吉備系器台
仏経山
神庭荒神谷遺跡

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
銅剣は1985年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。
丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。
加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。
銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態であった。鰭とは、銅鐸の横側、板状の部分を「鰭」と呼ぶ。古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのである。
1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。
荒神谷遺跡は史跡公園として整備されている。
加茂岩倉遺跡

遺跡は1996年に加茂町(現雲南市)岩倉の丘における農道建設工事中に発見された。重機による掘削中に、突然異様な音がしたため、直ちに重機を止めた運転者が「誰がポリバケツをこんなところに埋めたのか」と考えつつ近づいたところポリバケツではなく銅鐸を発見した。
発掘の結果、一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された。
出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定された。
遺跡は先に発見され358本の大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。
これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。
荒神谷

左手の高台に銅鐸が埋納されていた。
出土した銅鐸39個
実物は島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている
銅鐸に線刻されたシカ
シカと建物
銅鐸の舞の状態を復元お一例をが考古学者が推定
ついでに境港へ行き、水木ロードでゲゲゲの鬼太郎をパチリ
仲仙寺古墳群

四隅突出型墳丘墓
桜が満開

恒例になった遺跡めぐりの旅も今年で3回目となり、今回は北部九州と共に古代に栄えた吉備と出雲・伯耆そして大和を巡ってきた。

吉備国 4月4日


羽田空港から岡山空港に飛び、レンタカーで備前長船刀剣博物館見学の後両宮山古墳へ。


両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)は、岡山県赤磐市穂崎・和田にある前方後円墳
備前地方では最大、岡山県では第3位の規模の古墳で5世紀後半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。
一帯では本古墳含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる両宮山古墳群(西高月古墳群)の営造が知られ、本古墳はその主墳になる。墳丘上では前方部に両宮神社が造営されている。
墳丘は3段築成。墳丘長は206メートルを測るが、これは備前地方(岡山県南東部)では最大規模で、岡山県では造山古墳(岡山市北区新庄下、350メートル:全国第4位)・作山古墳(総社市三須、282メートル:全国第10位)に次ぐ第3位の規模になる
和田茶臼山古墳は両宮山古墳群の両宮山古墳の外堀に接して築かれた帆立貝型古墳 5世紀後半両宮山古墳に従属して同時期に
築かれたと推定されている。
現在は前方部が削平されていて円墳に見える。
次に訪れたのは吉備津神社
吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。
大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。
吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。
足利義満造営とされる比翼入母屋造の本殿は、独特の「吉備津造」で、拝殿とともに国宝指定。また社殿3棟が国重要文化財指定
本殿から長い回廊が続く
祭神の関係略図
社伝に従うもので、古事記・日本書紀等の系図とは表記が若干異なる。
 
7 孝霊天皇
 
8 孝元天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
千々速比売命
 
 
 
 
倭迹迹日百襲姫命
 
 
 
 
日子刺肩別命
 
 
 
 
大吉備津彦命
 
 → [吉備氏]
 
 
 
 
 
倭迹迹日稚屋媛命
 
 
 
 
彦寤間命
 
 
 
 
若日子建吉備津日子命
 
 → [吉備氏]

造山古墳(つくりやまこふん)は、岡山県岡山市北区新庄下にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。

岡山県では最大、全国では第4位の規模の巨大古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)の築造とされる。墳丘に立ち入りできる古墳としては全国最大の規模になる。

墳丘は3段築成で、前方部の頂は壇状の高まりをなす。墳丘長は約350メートルを測り、大仙陵古墳(大阪府堺市、約486メートル)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、約420メートル)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、約360メートル)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。
大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある。一方で、吉備単独の首長ではなく連合大和王権として造った古墳であり、その被葬者も倭王の一人ではないかと見ている研究者もいる。
天皇陵に比定されている上位3古墳をはじめ近畿地方の巨大古墳が宮内庁により国民はもちろん学者・専門家も内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入り出来る古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。
前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分である。
社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。

石蓋の一部にベンガラが残る。
次に向かったところは楯築遺跡 

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓<たてつきふんきゅうぼ>)は、岡山県倉敷市矢部にある墳丘墓。形状は双方中円形墳丘墓。国の史跡に指定されている。古くは「片岡山古墳」とも。
王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートルあまりで20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため破壊されている。今ではその名残を一部にとどめているに過ぎないが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びている。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味であるが、平坦に近い。
香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳であるが、先行的な形態をしている。 2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるようになった。 このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせる。その勢力の代表
突出部の前面はかなり急な傾斜で2~3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづく。盛り土しているのが分かる。

岡山県南部、総社市の中心部に鎮座する。市名・駅名の「総社」は、当社に由来する。古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はその1つで備中国の総社にあたる。

前庭の三島式庭園は古代の様式を今に伝えており、後楽園が築造される際に参考とされた。現在、境内は総社市指定史跡に指定されている。

総社宮の鳥居
随神門と回廊
境内の参道は回廊で結ばれている。
主祭神
  • 大名持命(おおなもちのみこと、大国主命)
  • 須世理姫命(すせりひめのみこと) - 大名持命の正妻。
相殿神
  • 御鎮魂八柱神 - 高皇産霊神、神皇産霊神、魂留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、事代主神、御膳神の8柱。
  • 備中国内304社の神 - 官社(『延喜式神名帳』記載の神社)18社、田社(国司の神名帳記載の神社)286社。
沼田神社(沼田天満宮)
式内社「野俣神社」論社。
まちかど資料館            

 明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、市内で現存する唯一の明治洋風建築です。館内には、備中売薬や阿曽の鋳物、い草関係など、明治を中心とした伝統産業の資料を展示しています。また館内の一部を展示スペースとして開放しています。
写楽の古代史跡探訪
出雲 4月6日
伯耆から大和へ 4月7日
伯耆・出雲 4月5日