|
JR東日本 大人の休日俱楽部フリー切符を利用して4泊5日の旅に出た。
今回の目的は昨年世界文化遺産に指定された、
北海道/北東北縄文遺産群を巡る旅の昨年六月に次ぐ第二弾ですね。
東京駅午前7時32分発 はやぶさ5号新青森行で
はじめの目的地 岩手県二戸郡一戸町にある御所野遺跡へ行くためため
東北新幹線で一戸駅へ出発進行 |
|
はやぶさ5号が5番線に入線
新型コロナ・オミクロン株感染症拡大につき
翌日から東京には蔓延防止重点措置が発出される前日です。
乗客は平日なので殆どいないかと思いきや意外と乗っておりましたね。 |
|
雪の蔵王連山を通過中。 |
|
予定通り定刻に二戸に到着。
ここからはバスで一戸に移動して、タクシーで御所野遺跡公園まで移動です。
その前にこの二戸駅(岩手県)の名物駅弁 短角牛のしぐれ煮弁当を購入。 |
|
タクシーで御所野遺跡公園の到着です。
ここでのタクシー利用には往復1000円の補助が町から支給されますので
実質往復1000円の負担です。(ありがたや)
御所野遺跡は縄文時代中期後半(約5000年前から約4200年前)の拠点集落です。
東西に細長い台地と東側の丘陵地に住居跡や盛り土遺構、配石以降などが分布し、
800年間という長期にわたって人々が定住した集落跡と考えられています。 |
|
山間地を北に流れる馬淵川右岸に位置し東西に長く延びる河岸段丘における
標高190-200メートルの中位段丘面に立地してます。
入口には一緒に旅に出たNさん。 |
|
屋根付きの馬淵川をわたる橋を渡って御所野縄文博物館へ行きます。
|
|
発掘当時を再現した展示場。 |
|
底に穴をあけた土器の発見
竪穴住居の床下から出土、乳幼児の「甕棺」とする説もあります。
下の写真(底に穴の開いた土器) |
|
底に穴が開いた土器。 |
|
この遺跡からは土偶はあまり発見されていないが、数少ない土偶の一つです。 |
|
おびただしい数の石鏃(矢じり)が出土どしてます。 |
|
トックリ形土器 まつりや祈りの場で使われたものか? |
|
縄文時代の土器や石器には赤色の顔料を塗布したものが発見されています。
|
|
村のジオラマ
馬淵川の河岸段丘上に集落が営まれていました。 |
|
遺跡を博物館の展望スペースから一望できます。 |
|
雪で埋まった遺跡一望です。
|
|
注口土器 縄文中期の土器は手が込んでいるものが多い。 |
|
遮光器型土器
昨年6月に行った亀ヶ岡遺跡(青森県)で発見された物に大きさこそ小さいが形はよく似ています。 |
|
鼻曲がり土器です。 |
|
遺跡は雪で覆われていてにわかに全体が想像できませんでした。 |
|
復元再現された竪穴住居
雪の中参観者のために除雪してあった、最も参観者は我々二人しかいませんでしたが・。。 |
|
入口にて一戸駅まで戻るタクシーを待つことに。
入口のモニュメントにはツララが垂れ下がていた、いかにも寒そうですね。 |
|
いわて銀河鉄道(IGR) 一戸駅に到着。
駅前で地酒を購入車中で一杯 |
|
このIGRの列車は途中から青い森鉄道に接続して八戸行きです。 |
|
これが二戸駅のNEWSDAYSで購入したお弁当 岩手短角牛 しぐれ煮弁当。 |
|
牛肉がたっぷり乗ったコスパの良い駅弁でした。
実はこれを食べたのはタクシー待ちの博物館入り口でした 早弁でした。 |
|
IGR・青い森鉄道で八戸駅に到着。
ここからはタクシーで是川石器時代遺跡 是川縄文館へ行きます。
青森県東部の八戸市に所在し、新井田川沿岸の南北の沢に挟まれた標高10~15メートルの段丘上に立地します。
サケ・マスが遡上する河川近くで、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。
|
|
遺跡は一王寺(いちおうじ)遺跡、堀田(ほった)遺跡、中居(なかい)遺跡の3つからなります。
縄文時代晩期の中居遺跡では、集落は小規模ですが、居住域、墓域、捨て場、配石や盛土など
多様な遺構が見つかっています。
是川遺跡からは鉢形土器が、植木鉢や菓子鉢の様な形のほか、透かし細工の台が付いた物など、
様々な形が作られておりその数は4,000点以上に及ぶ。 |
|
深鉢型土器
土坑から出土した深鉢形土器で、北海道の続縄文時代後半に特有な後北C2-D式の特徴がみられます
体部には、ミミズ腫れのような微隆起線による文様が施され、その間を刺突文や縄文を充填していま。
|
|
是川石器時代遺跡では、縄文時代前期から中期のころには漆の利用が始まっていました。
晩期の中居遺跡からは沢山の漆製品が見つかっています。。
低湿地の捨て場からは、精巧な土器や土偶をはじめ、弓やヤスなどの木製品や、
漆が塗られた弓や櫛、腕輪、容器などの漆製品が多数発見されました。
祭祀・儀礼が活発に行われたものと考えられます。
|
|
赤色漆塗り土器
祭祀や儀礼で使われた特別な器と考えられています。 |
|
木胎漆器
トチノキをくりぬいて作ったもの。 |
|
漆塗りの櫛
縄文人は身だしなみに結構気を使っていたのか??? |
|
見事な漆塗りの壺型土器。 |
|
土偶
様々な形や顔の表情の土偶がある。 |
|
装飾品
土製耳飾りらしいがこんな重いものを耳に付けたら耳が垂れ下がってしまいそう!! |
|
遮光器土偶の上半身部分。
遮光器(しゃこうき)は、北極圏に暮らすエスキモーが雪目を防ぐために伝統的に使用してきたゴーグルのことです。
人類学の専門家である竹倉史人氏は、縄文時代によく食されていたクルミ、栗、貝、
トチの実、イネ、ヒエ、サトイモこそが土偶のモチーフになっていることを突き止めた。 |
|
遮光器土偶 ほぼ完形?
|
|
|
|
見事な文様を施されたツボ型土器 縄文時代晩期 是川中居遺跡 |
|
実用には向きそうもない鉢形土器。 |
|
是川縄文遺跡群からはおびただしい土器が発掘されている。 |
|
合掌土偶 二点
縄文時代後期後半の拠点的な集落跡である風張(かざはり)1遺跡からの出土品である。
|
|
体育座りをした体勢で頬杖をついているように見えるため、「頬杖土偶」とよばれている。
合掌土偶と同じく、これも竪穴住居跡から出土している。 |
|
座った状態で両腕を膝の上に置き、正面で手を合わせ指を組んだ
ポーズをとっていることから、「合掌土偶」と呼ばれている。
一般的に、土偶は捨て場から壊れた状態で見つかることが多いが、
本資料は竪穴建物内から出土した。 |
|
正面
左ももの付け根などの割れた部分にはアスファルトが付着しており、
当時の縄文人が修理して大切に扱っていたことがうかがえる。
また、顔や体の一部で赤い顔料が確認できることから、使われていた
当時は全体が赤く塗られていたと思われる。
|
|
横側 |
|
後背 |
|
斜めから |
|
青森県の国宝はこの土偶のほかには工芸品で2点がのみだそうです。 |
|
第一日目の夜は八戸の温泉付きビジネスホテルにて宿泊。
夜は肴のおいしい居酒屋さんでまず一次会、二次会でみろく横丁の入口のラーメン屋さん。
|
|
みろく横丁の入口
三次会はみろく横丁奥にあったスタンドバーにて同世代のママさんと女性客それに20代の女性で駄べリング。
オミクロン株感染拡大の影響か? 人出は少ない。
我々が東京に戻った後に青森県も間遠防止重点措置が発出されました。 |
|
二日目
青い森鉄道で野辺地を経由して大湊線で下北駅からバスで大間崎に向かう。
途中駅野辺地で旧友と会うべく途中下車するも叶わず。
野辺地駅前の様子、人っ子一人歩いてはいませんでした。 |
|
下北駅から路線バスに乗って大間町へ。 |
|
途中、今夜泊まる下風呂温泉を通り越して大間崎に到着。
大間崎は25年ほど前に訪れて以来2度目の訪問。
|
|
以前訪れた時にはマグロと下北半島のシンボルのモニュメントはありませんでした。 |
|
津軽海峡をバックに再びNさんです。 |
|
小生も記念写真 |
|
「大間んぞく」という名の食堂にて遅い昼食をいただきました、当然日本酒付きです。
この2週間前に「テレビ朝日の旅サラダ」に、ここの主人と奥さんが出演しておりました。
ひとしきりこの話題でした。
ここの大将は何年も前に正月初セリの一番マグロを釣り上げた人物です。
額の写真はその時のものか?
ご存じでしたか?
ここで食べる大間のマグロは築地市場から仕入れているのだそうです。
(これうそのようなホントの話です。)
別ところで聞いたら、地物も多少は手に入るそうですが。 |
|
下北半島をイメージして腕を使ったおなじみのモニュメントです。
|
|
この日の夜は下風呂温泉の三浦屋さんで一泊、隣には共同浴場の「海峡の湯」ができてました。
以前この地を訪れた時には三浦屋の隣くらいに海峡の宿 長谷旅館があって井上 靖が
宿泊した部屋に泊まったのですが、今は日帰り温泉に建て替わってました。 |
|
日帰り温泉 海峡の湯 の2階には井上靖ゆかりの部屋が復元されていました。 |
|
大変懐かしく見てきました。 |
|
宿泊した三浦屋の二階から下風呂港を望む。 |
|
前日2日目は移動に時間がとられて遺跡見学はありませんでした。
3日目も移動時間が多くバスで下風呂温泉から大湊線下北駅へ、そこからJR大湊線で
野辺地まで行き、野辺地からは青い森鉄道に乗り換えて青森駅まで行きます。
下北駅前で恐山をパチリ。
下北駅のあるむつ市は
下北半島に位置し、陸奥湾と津軽海峡に面する、本州最北端の市である。
2005年の市町村合併により、青森県の総面積の約11%を占める県内で最も大きな面積を持つ自治体となったそうです。 |
|
JR大湊線下北駅 JR大湊線の終点は一つ先の大湊です。
1960年に大湊田名部市から現在のむつ市に改め、日本で初めての平仮名の市です。
下北地方の中核都市であり、周辺自治体に広がる人口約75000人のむつ都市圏を形成してます。
|
|
野辺地駅で青い森鉄道に乗り換えて一路 青森駅へ。 |
|
青森駅でJR津軽線に乗り換えて 大平(おおだい)駅へ、大平山元遺跡へ行くのです、が!!!
駅から徒歩10分ほどで「大平山元遺跡}へ向かうも!!! |
|
雪道で目的地まで難航?????
この道路標識を見て昨年6月に行った竜飛岬に近いことが分かった。
こんなことなら去年来ておけばよかったのですが・・・。 |
|
遺跡資料館にやっと到着するも新型コロナ感染拡大で臨時休業がっくり
ネットでは開館中とあったのでわざわざ何時間もかけて到着したらこの始末。 |
|
大雪の後で積雪は1メートル近くあったのでは?
|
|
遺跡の看板は雪で埋もれていました
|
|
ここから青森駅に戻るのに2時間近く列車がなく、火の気の全くない駅の待合室で震えながら待ちました。 |
|
やっと来た津軽線も二駅先の蟹田駅止まりで、乗換町をしないと青森まで行けませんでした。 |
|
やっとの思いで青森駅へ戻りホテルにチェックイン後、予約してあった今回の旅のメインエベントの一つ
津軽三味線のライブをやっている、居酒屋「たか久」に行きました。 |
|
地元産の食材を使ったコース料理を満喫。 |
|
刺身の後は揚げ物でした。 |
|
店内の様子 この時点では青森県は蔓延防止重点措置発出にはなってませんので大人数の
宴会も開かれてました。 |
|
仕上げはマグロ、ホタテ、ミル貝の寿司で。 |
|
地酒の飲み比べセットをいただきました。 |
|
翌朝散歩でホテル前の青森港に停泊の八甲田丸(今は博物館)まで雪をかき分けて行ってきました。 |
|
日の出前の青森港 積雪は30センチ以上はあったかな。 |
|
4日目は青森から北海道へいきます。
青森駅から新青森駅に一駅在来線に乗って、新青森から青函トンネルを通って新函館北斗駅へ。
まだ新しい新函館北斗駅の写真です。 |
|
函館北斗駅で今回の旅行で初めてレンタカーを借りて 大沼公園を経て大船遺跡へ。
雪道の運転は周りの猛反対で今期の旅では極力控えましたが、このルートだけは車がないと回れないので
やむなくレンタカーを借りた次第です。
幸い幹線道路は除雪してあり、この時期の北海道のレンタカーは4WD車が殆どで全く心配はいりません |
|
大沼公園でひと時散策、日曜日で大沼でワカサギ釣りをする親子ずれが結構来ていました。 |
|
昼頃 大船遺跡に到着
北海道南西部、渡島(おしま)半島東岸の函館市南茅部(みなみかやべ)地区に所在し
、大船川沿岸の標高30~50メートルの海岸段丘上に立地します。
|
|
水産資源豊富な太平洋に面し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。 |
|
大船遺跡は、定住発展期後半の祭祀場である大規模な盛土を伴う拠点集落であり、沿岸地域における
生業と精神生活の在り方を示す重要な遺跡です。
また、クジラ、オットセイなどの海獣類や、マグロ、サケなどの魚類の骨、カキなどの貝類のほか、
クリ、クルミなどの堅果類や、ヤマブドウ、ウルシなども出土しており、漁労とともに森林資源も
活発に利用していたことがわかります。
|
|
集落には100棟を超える竪穴建物跡からなる居住域と大規模な盛土があり、
その南西には墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑群が確認されています。
盛土からは膨大な量の土器や石器、焼土などが
出土しており、長期間継続して祭祀・儀礼が行われたと考えられています。
|
|
竪穴住居の配置。 |
|
遺跡は除雪されこの厳冬の中で参観される人達におもてなしの気持ちが伝わってきました。 |
|
竪穴建物跡は、床を深く掘り込んだ大型のものが多く、深さ2メートルを超えるものもあります。 |
|
大船遺跡の特徴は、遺跡内の竪穴住居の密度が非常に高いことだそうです。
縄文時代中期(約4500年前)を中心とした竪穴住居跡が120件以上発見されている。 |
|
竪穴は雪で埋もれていましたが確かにこれまで見てきた竪穴に比べてかなり深く掘られています、
防寒対策であったのだろうか。 |
|
御覧の通り住居内の床面はかなり下にあります。
|
|
たびたび登場してくれます。 |
|
遺跡から太平洋を望む。 |
|
|
|
大船遺跡から車で10数分のところに 函館市縄文文化交流センターと垣ノ島遺跡があります。
北海道で唯一の国宝「中空土偶」を常設展示し、道の駅機能を併せもつ
博物館「縄文文化交流センター」。
南茅部縄文遺跡群を中心に、函館市の縄文遺跡から出土した、
様々な土器や石器などの遺物を数多く展示している。 |
|
垣ノ島遺跡入口
北海道南西部、渡島(おしま)半島東岸の函館市南茅部(みなみかやべ)地区に所在し
、垣ノ島川沿岸の標高32~50メートルの海岸段丘上に立地します。
水産資源豊富な太平洋に面し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。
|
|
垣ノ島遺跡は、定住開始期後半の集落遺跡であり、沿岸地域における生活や、
耐久性があり長期間居住できる竪穴建物の出現、
日常(居住域)と非日常(墓域)の空間の区別など、集落の様子や精神文化の
変遷を示す重要な遺跡です。 |
|
|
|
案内図の右半分は
紀元前2,000年頃に構築された長さ190メートルに及ぶ「コ」(U)の字形をした
大規模な盛土遺構は、国内最大級の規模です。
|
|
落内では、竪穴建物による居住域と、土坑墓からなる墓域が分離されており、
日常と非日常の空間が区別されていたことを示しています。 |
|
盛り土遺構
「送り場」など祭祀・儀礼の場と考えられ、当時の社会性や精神性の変遷を示す
遺構として、今なお視覚的に確認できる重要な記念物です。 |
|
|
|
|
|
縄文時代という時代区分は日本史に固有のものであり、世界史の枠組みにおいては
新石器時代という区分が一般的に用いられる。他の地域の新石器時代との共通点としては、
上記の磨製石器や土器の使用のほか、定住生活なども挙げられる。
縄文時代の時期区分についても草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に
分ける土器型式上の区分が慣用化している
垣ノ島遺跡は縄文時代早期から始まり7千年間継続する遺跡、紀元で言えば紀元前1万年前くらい
から紀元前3千年まで極めて長く続いた遺跡です。
|
|
早期の縄文 縄目文様がシンプルである。 |
|
大船遺跡から出土した土器 したがって縄文時代中期の土器。 |
|
これも大船遺跡出土の土器 縄目が細かい。 |
|
大船遺跡から出土した石皿
主に食材を調理する際に木の実や肉などをすりつぶす石臼として使ったものと推定している。 |
|
。大量の石皿 |
|
何やら遮光器土偶を想起させる土偶。 |
|
表面にかなり手の混んだ文様を施した注口土器。 |
|
下の漆工芸の説明 |
|
漆工芸品が出土 |
|
出土したまま保存されている。 |
|
垣ノ島遺跡~出土した翡翠の工芸品 イアリングか?
翡翠は新潟県の糸魚川付近から来たものか?
糸魚川市近辺で産出されるヒスイは、5億2000万年前に生成された。
長い時間を経て、原産地周辺ではヒスイを利用する文化が芽生えた
。その発祥は、約7000年前の縄文時代前期後葉までさかのぼる。
|
|
墓には子どもの足を押しつけた足形付土版が副葬されることがあり、
この地域特有の精神文化を伝えています。 |
|
|
|
子供の足跡 |
|
足形付土版 |
|
足形・手形付土製品が出土した北海道と余は4遺跡 |
|
北海道初の国宝に指定された土偶 中空土偶
|
|
均整の取れた体 両腕がとれていて発見されていません。 |
|
中空の土偶は珍しい。 |
|
後ろ姿 |
|
頭部を拡大して撮影
頭に左右何かが付いていたようですが、発掘場所をくまなく探したようですが
破片は発見できなかったようです。 |
|
|
|
|
|
中空の中をCTスキャナーで調査 |
|
博物館から函館市内に戻って 五稜郭タワーに
タワーから五稜郭を望む
五稜郭は江戸っ時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の函館市)に築造した稜堡式の城郭。 |
|
タワーから函館山方面を俯瞰 |
|
360度のパノラマです。 |
|
|
|
函館山のケーブルカーに乗って夜景を示唆しぶりに見てきました。
カップルばかりでしたね。
最近のスマホのカメラは一眼レフ並みで良く撮れます。
これはソニーのXperiaでカールツアイスのレンズが装着されてます。
|
|
函館の中心街 |
|
朝の散歩前に函館駅前の朝市で朝食
なんと酒といくらの親子丼に味噌汁と漬物がついて500円ポッキリ、たまたま今年不漁のイカが
入っていてイカの刺身を注文これも900円でした。 |
|
朝食後函館観光
函館港から函館山を望む |
|
函館港に停泊展示されている連絡船 摩周丸。
1954年9月26日
函館湾を襲った台風15号により沈んだ青函連絡船は、洞爺丸
この事故を教訓にして、十分な安全対策を施し、かつ高度に自動化された連絡船
摩周丸がつくられました。
|
|
港越しに大沼方面 駒ヶ岳? |
|
函館は幕末に外国に向けて開港した港町 擬洋風建物が多く残ってます。 |
|
これもその一つ 函館の豪商 相馬株式会社社屋で現在も使われている。
文久三年(1863年)、初代相馬哲平が箱館、弁天町に米穀商を開業した会社。
現在は函館市内の社有不動産賃貸を主業とし、併せて月極駐車場経営
、損保代理業、社有林育成を営んでいるそうです。
|
|
イギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、
函館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。
文久3年(1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、
数度の火災にあった。 |
|
この建物は対象2年(1913年)に竣工したもので、昭和9年(1934年)閉鎖されるまで
領事館として使用されていた。。 |
|
函館山山麓 眺めは良いのですが??????
雪が降って凍り付く道路はツルツル滑って極めて危険!! |
|
明治43年(1920年)函館の豪商相馬哲平が5面円を寄付して、焼失した公会堂の
代わりに建て替えられた。 |
|
公会堂 |
|
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で、左右対称形になっており、2階には
バルコニーを排しているが、屋根窓を置き、玄関、左右入り口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど
特徴的な様式を表している。 |
|
旧北海道庁函館支庁 庁舎 |
|
元町公園から港を望む |
|
聖ヨハネ教会 |
|
カトリック元町教会 |
|
日本聖公会 函館聖ヨハネ教会 |
|
新函館北斗からから北海道新幹線で新青森までは普通指定席で、
新青森からは同じ列車のグランクラスに移動し、ゴージャスな帰りとなりました。 |
|
アルコールは紅白ワイン、発泡ワインに日本酒、ハイボール、ビールは飲み放題。
ちなみにつまみは乾きものだけですが、季節のお弁当がついてます。
これは手始めに発泡酒でした。 |
|
これは赤ワインです。 |
|
季節のお弁当には日本酒が似合います。 |
|
そんなこんなであっという間に東京駅に到着4泊5日の旅は終わりました。 |