2008年1月
品川は私の第二の故郷みたいなものです。
高等学校は青物横丁、結婚して最初に居を構えたのが南品川で現在は鮫洲から3分の東大井に住んでいます。
このページは東海道宿場町の趣が、今でも都内で珍しく少し残っている品川宿にカメラを向けてみました。
東海道は江戸と京都を結ぶ主道路でした。そしてこれを主線として、中仙道、甲州道、日光道、奥州街道の五線を「五街道」と言います。
江戸の日本橋を起点として、ここから京都三条に至るまで一二六里半、五十三駅がおかれました。
関が原の戦いに勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年全国的な交通整備に着手し、東海道の各駅に家康の伝馬朱印状を与え、伊奈備前守忠次・彦坂小刑部元成・大久保十兵衛長安の伝馬定書を下付した。寛永15年(1638)に東海道の各宿は馬100疋・歩行人足100人に増強された。品川宿の地子(年貢)免除も寛永10年に5000坪、元禄11年(1698)さらに5000坪が増やされ、計15000坪となった。
17世紀後半になると、江戸に近い北品川宿の北側に人家が出来て新町が形成されていった。しだいに茶屋町として酒食を商う煮売家と同様のものが出来、南北両宿を脅かすようになり、宝永-正徳年中(1704-16)には争いまでなっていた。このころ新町は品川宿に課せられていた人足役(歩行役)のほとんどを勤めていたので、品川宿に加えられるよう道中奉行に願い出ていた。享保7年(1723)に再び願書を提出し、再度に及ぶ代官の調査によって奉行の裁定は新町と善福寺・法善寺両門前町が勝利し、名称を歩行(かち)新宿と改めて品川宿に加わることとなった。これにより品川宿は南品川宿・北品川宿・歩行新宿の三宿で成り立つこととなった。また従来の南北の両品川宿を新宿に対して本宿といった。
2007年八ッ山橋にアンダーパスが完成し、品川宿の入り口が整備されました。同時に緑地が新設されて、品川から東海道53次目の大津の宿まで53個の石の道標ができました。 | |
八ッ山橋は屋つやまはしとも書くようです。 | |
品川宿入り口 脇は京浜急行の踏切が無粋にもあります。 | |
なまこ壁の江戸風トイレも整備されました。 | |
品川宿の一番江戸よりが歩行新宿で、食売(めしうり・飯盛)旅籠が集中していた。また、歩行新宿の西側には桜の名所御殿山があった。 |
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品川宿入り口はJR品川駅より徒歩5分程度から始まります。正面左の高いビルはは品川プリンスホテルです。 | |
八ッ山橋の下は、東海道新幹線、東海道線、横須賀線、 山手線、京浜東北線が走ってます。 右手の杜は御殿山、左手のビルはラフォーレ御殿山。 |
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旧東海道品川宿の散策には、京急線北品川駅が便利です。 | |
駅前には品川神社が鎮座してます。 | |
東海道から江戸へ入る前にここで一泊して旅の「垢」を落とす人も多かったし、近くには景勝の地があって、品川行きの口実を作ってくれた。桜の御殿山、紅葉の海晏寺、品川神社など、江戸では屈指の名所であった。
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武蔵野台地の東のはずれ海岸線に落ち込むところが品川です。結構な段差があります。 | |
上り詰めると鳥居の奥に本殿が見えてきます。 | |
狛犬のお迎えも | |
当日は正月の七福神めぐりの人々で賑わっておりました。 | |
太太神楽の舞台? | |
江戸時代の大神輿が陳列されてます。 | |
品川は江戸時代ねぎとかぶの産地でした。 | |
神社の入り口の南側には富士塚があります。 富士信仰の遥拝場所 |
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東海道五十三次目の大津の宿道標 | |
53の道標が並んでます、意外と知られていない宿場名もありました。新発見「池鯉鮒」という宿場知ってました? (今では知立と書きます) |
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品川宿入り口京急が走る。 | |
この踏み切りから先が品川宿です。 | |
昨年新設された観光案内用石の道標 | |
商店街は東海道品川宿を宣伝し、町おこしに一生懸命です。 | |
町おこしの一環で街の有志がちょっと洒落た飲み屋を3件やってます。これはその一つ「あぶりや連」の壁に掛けられた八ッ山の解説。 | |
あぶりや 連 | |
よりみち 連 | |
問答河岸跡 お寿司屋さんがあります、海岸方面に下った角に「よりみち連」があります。 | |
かって海岸先に波止場があり、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむ。(大軍を率いても将(小)軍とはこれいかに。 | |
宇都宮徳馬書の問答河岸由来記 | |
歩行新宿(かちしんじゅく) 土蔵相模 道標 | |
幕末の動乱を演出した人間たちを受け入れた旅籠は今は、賃貸マンションとコンビニエンスストアに変わってます。 |
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御殿山イギリス公使館を焼き討ちした、高杉晋作らはこの旅籠で密談を凝らし、決行。 | |
東海道から東側は海岸線に下りる坂道。 今では埋め立てによって海までは大分歩きます。 |
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東海道から御殿山への抜ける横町 | |
道幅は東海道と同じくらいあります。 | |
こんなレトロの建物もあります。 |
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善福寺門前 | |
善福寺 | |
善福寺 旧東海道沿いにある1294年創建の古刹。藤沢の遊行寺こと藤沢山無量光院清浄光寺を総本山とする時宗の寺。 この寺には伊豆長八の鏝(こて)絵が伝わる。 伊豆の長八は江戸の左官として前後に比類ない名人であった。 |
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残念ながら一部が朽ちて落ちています。 | |
ところどころにお土産物やがあります。 | |
御殿山下、台場へ下っていく横町 台場は江戸末期外国船からの江戸防備のために作られた。 |
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商店街のシャッターにはそれぞれ五十三次の絵が描かれている。 | |
日本橋から8キロメートルの地点 | |
横町は狭い | |
品川の成田山 | |
養願寺 虚空蔵菩薩がご本尊で養願寺に通じる横町 | |
竹屋横町 | |
品川本陣跡 今は公園になってます。 |
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聖跡公園 本陣跡 | |
海苔は大森ですがこちらにもあります。 | |
目黒川 河口近く 東海橋から大崎方面の上流 | |
国道15号線(第一京浜国道)に架かる東海橋 | |
目黒川にかかる品川橋 下流を望む JALの本社ビルが左奥に見える |
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旧東海道の北品川と南品川の境を流れる目黒川にかかる品川橋、江戸時代は境橋と呼ばれていた。 |
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品川の鎮守荏原神社 | |
荏原神社 | |
かもめが集まってました。 | |
かもめに混じってかももいました。 | |
七福神めぐりで賑わっていました。 | |
目黒川南側から南品川宿 | |
南品川宿の町並 | |
ホームラン地蔵があります。 | |
境内にみかんがたわわに生っておりました。 | |
なんと日本で初めてのビール工場も、ここ品川にあった品川歴史館の資料によれば、明治2年、当時の品川縣(しながわけん)知事、古賀一平は新しい時代の産業としてビール工場を建設することにしました。不況の中、仕事先を提供するという目的もあったようです。 この酒屋さんで品川ビールが買い求められます。 |
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堂宇建立成就の日、鳳凰が舞い降りてきたため鳳凰山と名づけ、妙法蓮華経の力をもって国家安穏を祈る精舎との意味で妙国寺(現 天妙国寺)と称す。 |
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鳳凰山 天妙国寺は京都総本山妙満寺の末寺にあたり、顕本法華宗(法華宗妙満寺派)に属する。 「妙国寺縁起」によると、弘安八年(1285)、日蓮大聖人門弟中老の天目上人によって創建された。 |
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京浜急行青物横丁駅から旧東海道を品川方面に戻ったところにちょっと外見がおかしな居酒屋 「がやがや」あります。 |
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諏訪神社 | |
青物横町 江戸時代 品川寺(ほんせんじ)門前町屋で東海道と池上道交差するところに青物市場があり、地元では青物横丁とよんでいた。 |
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東海道から池上道を望む。 | |
青物横丁駅(京急線) | |
青物横丁から池上本門寺へ池上通りが続く。 ここは仙台藩下屋敷が江戸時代の初期にあり、坂道を仙台坂という。 |
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鎌倉時代の品川には品川氏という御家人がいた。南側の大井にいた大井氏と同族で姓は紀伊氏、紀伊国粉河寺領丹生谷の地頭であった。品川寺の秘仏で本尊の水月観音像は、弘法太子空海が東国巡行中にこの地の領主品川氏に与え、同氏の滅亡後は草堂に安置されていたという。 □ 品川氏の滅亡は室町時代になってからで、鎌倉公方の足利持氏によつて、品川氏惣領の品川太郎の館のあった掘の内を省く所領のすべてを没収され、丸裸にされてしまった。この措置に対して一族は武力抵抗したものの、結局は没収されて滅亡した。 □ その結果、繁栄する品川湊は鎌倉府の直轄領にされ、持氏を継いだ成氏によって、同じ紀伊国熊野から来た鈴木道胤に蔵役が免除される。一方、品川御殿山には、管領上杉氏の執事太田道潅が進出して、品川湊の権益は鎌倉府と管領上杉氏の対立要因になった。 旧東海道を行くと、塀越しに大仏のごとき青銅の地蔵が見えるが、これは江戸六地蔵の一つとして宝永五年(1708)に深川の地蔵坊正元が浄財を集めて、江戸の入り口六ヶ所に造立した一つである。他の五つは浅草・新宿・巣鴨・深川に造られた。作者は神田の鋳物師太田駿河守正義で、地蔵像の全身と台座に寄進者の名がたくさん刻まれている。 |
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海照山品川寺は、品川左京亮(しながわさきょうのすけ)伝の水月観音・聖観音両菩薩霊像を本尊とし奉り、後花園天皇長禄年間、太田道灌公の創建、後光明天皇承応年間、弘尊上人の中興によるところなり。世々「品川観音」と称せられる。 | |
釜屋は、南品川にあった建場茶屋の一つで、大変繁盛したため、後には本陣のような構えに改築されたという。慶應三年(1867)十月二十一日、隊士募集に上京した土方歳三らも釜屋を使っている。また鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組一行は品川から上陸し、しばらく釜屋に逗留した。ここで松本良順により手当を受けたと伝えられる。 | |
荒神様は、「かまど」、つまり台所の防火のご利益があるとして、江戸の頃より宗派を問わず関東一円の多くの人々から信仰されている「鎮火防火の神」のこと。 | |
力石 | |
千躰荒神 本堂 | |
東海道から 海晏寺への参道 | |
岩倉具視の墓は鮫洲の海晏寺にあります。 海晏寺の参道にある岩倉具視公の墓案内 |
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海晏寺本堂 堂裏手の高台には、岩倉具視、松平春嶽の墓があるが、一般には参拝できない。松平春嶽の墓域には、家臣であった由利公正や、中根雪江の墓が、まるで墓守のように建っている。 |
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京急青物横丁駅から第一京浜国道を渡ったところに海晏寺がある。海晏寺は、建長三年(1251)、執権北条時宗が鎌倉建長寺から蘭渓道隆を迎えて創建したものである。 鐘楼 |
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仙台坂 俗称暗闇坂 | |
鮫洲(東大井)にある山内容堂の墓案内版 | |
容堂の墓 | |
仙台伊達藩下屋敷跡 | |
我が家の近所 | |
樹齢300年のタブノキ |
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樹高20メートル超のタブノキ | |
旧東海道鮫洲界隈 | |
こういう趣の家が残ってます。 |
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今では珍しい平屋建ての商家。 | |
吉田家蕎麦店 結構通の人に名が売れてます。 | |
お値段そこそこ | |
立会川脇にある諏訪神社 | |
松の幹が実に奇妙な形です。 | |
立会川商店街 | |
立会川に架かる浜川橋 俗称涙橋 | |
いよいよ今回の散策の旅の終点鈴ケ森刑場跡 | |
火焔の刑はこの石の上で執行されました。合掌 | |
磔の刑が執行された柱の礎 | |
鈴ヶ森刑場跡全景 |