大和・柳本古墳群

2014年11月6日

飛鳥時代以前日本国の原型がつくられたといわれる。歴史的に重要な意味を持つこの地には、名だたる遺跡が数多く残されている。

わが国最大級の遺跡である纏向遺跡、日本最古の神社とされる大神神社(オオミワジンジャ)等桜井市、天理市を貫く山の辺の道

に沿って歩いてきた。

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 神社
箸墓古墳(大市墓・箸中山古墳)墳丘長278m高さ30m

第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。
               
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。
樹木が生い茂っており前方後円墳の形状は掴みにくい。

纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳
この角度からだと前方後円墳の形状が何となくつかめる。

以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきた。
しかし1980年代以降に考古学的年代決定論が精度を増し、箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説が主流となった

手前が箸墓古墳 奥の山並みが三輪山
古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。

三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。

2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。現在、復元整備され一般に公開されている。

築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。


前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている
墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨」出土大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設。その内部にコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺を納めた大規模な木槨。広義の割竹形木槨。
ホケノ山古墳墳頂部から箸墓古墳の後円部を撮影。
巻野内石塚古墳は纒向型で葺石がある例は少ないが300m離れてあるホケノ山古墳は葺石があり大きさもホケノ山の2/3の大きさでありホケノ山古墳を盟主とする同時期の古墳と思われる。
墳丘:纒向型前方後円墳(全長60m、後円部径40m、前方部長20m) (現状は径40mの円墳状)前方部を北東に向ける。

奥は箸墓古墳

渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳


宮内庁により「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として第12代景行天皇に治定されている
上の山古墳標識 景行天皇陵の陪塚
現在は景行天皇陵に治定されているが、江戸時代には崇神天皇陵と思われていた。築造年代は現在の崇神天皇陵である行燈山古墳より少し遅れた4世紀後半と推定される。
全長310メートル、前方部幅170メートル高さ23メートル、後円部径168メートル高さ23メートル。墳丘は東西方向に主軸をおき、後円部は正円形で3段築成、前方部も3段で築かれている。後円部頂上は平坦で円形である。前方部の頂上も平坦であり、長い台形である。
行燈山古墳(あんどんやまこふん/あんどやまこふん、行灯山古墳)は、奈良県天理市柳本町にある古墳時代前期の前方後円墳帆立貝形古墳にも分類される)。
宮内庁により「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」として第10代崇神天皇に治定されている。
本古墳は、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向けている。後円部がより高い山側にある。 三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。
その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である。
墳丘は全長が242メートル、正円形で3段築成の後円部は直径158メートル、高さ23メートル。後円部頂上は平坦で円形である。前方部正面は、わずかであるが弧状をなしている。その頂上は、くびれ部に向かって少しずつ低く坂のように整形されている。
後円部直径と前方部直径比は、1:0.8 程度である。渡り土堤が後円部南側と前方部にあり、築造当初から設けられていたと推定されている。周濠の形状は左右対称の盾形とされている
行燈山古墳の前方部(手前)から後円部を撮影

周濠に水を湛えている。
奈良県天理市柳本町にある前期(3世紀末頃)前方後円墳。33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名。
本古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群に属し、台地の縁辺部に立地している。最初に発掘調査が行われたのは1961年(昭和36年)の事前調査であり、後世に城郭として利用されたことがこの時分かった。
全長約130メートルの前方後円墳で、後円部径約72メートル、高さ約11メートル、前方部長さ約48メートル、高さや6メートル、後円部3段、前方部2段で前方部と後円部の落差が大きい。前方部正面にわずかな弧状のふくらみが見られ撥形であることが分かる。これらは、前期古墳の特徴である。周濠を持っている。葺石埴輪は確認されていない。

1997年平成9年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された。

棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に1・1をおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。

後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長約8.3メートル、北小口幅0.9メートル、高さ約1.7メートルで、二上山麓の春日山芝山の板石を持ち送りに積んで合掌造状の天井を作り出している。
後円部頂から前方部を撮影
嘗て中世には城郭として利用された。
石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1メートル以上の刳抜式木が納められている。木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ水銀を施し、両端はベンガラ赤色で塗られていた模様である。水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。
なおこの縦穴石室は、ほぼ真北を向いており、被葬者の頭も真北に向けられていたことは推定できる。この真北は単なる偶然ではなく、ヤマト王権の中に被葬者の頭を真北に向けて埋葬する風習があったらしいと考えられている。
棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に1・1をおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。三角縁神獣鏡のこの扱いにより、この鏡が葬式用に作成されたもので価値のあるものでは無い(つまり小林行雄による大和政権の配布説を否定)との見解を補強したとの解釈もある
鏡の他に刀剣類や鉄鏃・小札(こざね)・用途不明の鉄製品などが配置してあった。玉類や腕装飾品類は出ていない。
三角縁銘帯四神四獣鏡
銅の産地と制作人を木下鏡が出土
この鏡の内円の文字に銅は徐州産と記されている。
桜井市立埋蔵文化センター
桜井のあけぼの(原始)から飛鳥・奈良時代までの各時代ごとに

市内主要遺跡からの出土品が展示されている。
縄文土器
弥生時代の墓制とマツリ
弥生土器
マキムクの時代 古墳時代の始まり
纏向の時代は纏向川が分流し洲を形成していた。
前方後円墳はこの地から始まった。
纏向異性からは大和以外の地域で作られた土器や他の地域の影響を受け倭の地で作られた土器が数多く出土している。
これらを外来系土器と呼ばれている。
外来系土器 東海、近江、吉備、河内、摂津などの特徴を持つ土器
鉄鏃、銅鏃、石鏃など
木製の仮面 祭祀に使われたものと考えられている。

口にあたる部分の穴には竿が入って鍬になる
箸墓古墳から出土した木製の輪鐙

奈良県桜井市箸中の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)跡から古墳時代前期(3世紀末―4世紀
初め)の木製輪鐙(わあぶみ)が出土したと、同市教委が30日、発表した。馬具としては国内最古で、現存する鐙では
世界最古と見られる。わが国の乗馬の始まりを100年近くさかのぼらせる発見で、4世紀後半―5世紀初めごろに、朝
鮮半島の騎馬軍団に対抗するため導入したとする通説は見直しを迫られることになりそうだ。」
木製輪鐙 この時代には日本には馬が輸入されていなかったと考えられていたが、この発見で馬が半島から入ってきた時期が従来考えられてられていた時期より100年ほど遡ることに。
古墳に埋葬された様々な出土品
これからは古墳の副葬品を紹介
石釧(いしくしろ)、車輪石、鍬形石製品
銅鏡の数々
鉄剣、他鉄鏃
桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は、奈良県桜井市にある前方後円墳。所在地の地名を冠して「外山茶臼山古墳(とびちゃうすやまこふん)」


今回の旅ではこの古墳までいけませんでした、次回の楽しみにしました。
上空写真では前方後円形がよくわかります。

古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造されたものである。墳丘長207メートル、前方部が細長く、全体が柄鏡(えかがみ)形を呈する柄鏡式古墳である。古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、箸墓古墳に後続する時期に造営された巨大な前方後円墳である。
所在地:桜井市山田字小立
墳丘:前方後円墳(帆立貝式)、全長34.7m、後円径27m、前方部長9m、前方部幅15.5m、周壕幅6m。葺石あり

埋葬施設:後円部2段目の途中から上は削平を受けている出土遺物:円筒埴輪77点、形象埴輪(鶏形、家形、舟形、盾形、蓋形、冑形、草摺形、短甲方、靫形、木製埴輪(石見形13点、靫形2点、盾形2点、太刀形1点)

★築造年代:5世紀前半頃(出土遺物より
墳丘や周濠から、おびただしい数の埴輪や木製品が出土し注目を浴びました。

墳丘や周濠から、おびただしい数の埴輪や木製品が出土し注目を浴びました。

桜井市埋蔵文化センターは大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居からすぐ近くにあります。
大神神社のある三輪山遺跡からは夥しい出土物が
ガラスの小玉
ガラスの小玉
きれいなものです。
昔から女性は飾り物が好きだったようです。
金製品
勾玉、管玉、その他玉類
綺麗です。
動物埴輪
良くできています。
家形埴輪
人物埴輪
兜を付けた武人の埴輪
古墳時代の後期(6世紀ごろ)になると古墳の埋葬施設は竪穴系の物(竪穴式石室)から、横穴式石室に変化します。
古墳時代後期の埋葬品
横穴式石室は中国の葬法が朝鮮半島を経て日本列島に伝わったものです。
埋葬物に渡来系の物が多くみられます。
大福遺跡は桜井市大字大福に所在する屋用時代を中心とする集落遺跡で、標高65m前後の寺川左岸に展開している。昭和48,49年大規模な宅地開発の前に行われた調査で存在が明らかになった。
銅鐸は古墳時代初頭の物と考えられる方形周溝墓の周溝底面から検出された埋納鉱に埋められた状態で出土。
くり抜き式の木棺
木棺
古代史跡探訪